京都の宇治に位置する黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の大本山萬福寺(まんぷくじ)。
ここに来ると入り口からして、あれっ?ここって日本のお寺だったかなと勘違いしてしまうような構えで迎えてくれます。
それもそのはず、萬福寺は中国の高僧「隠元禅師(いんげんぜんじ)」によって開かれたお寺で、あちこちに中国様式が見られるからなのです。
隠元和尚は他にも日本に様々なものを伝え、現在の日本に生かされているんですよ。
チャイニーズテイストなお寺、黄檗禅宗の大本山萬福寺
1661年、徳川4代将軍家綱より宇治の地に9万坪の土地をいただき、隠元隆琦(隠元禅師)により開創されたお寺が萬福寺です。
隠元禅師は中国より来日した中国の高僧のため、萬福寺には中国様式が至るところで見られます。
お経は中国語、節のついた梵唄、中国の萬福寺の習わし通りで事が行われるのです。
伽藍配置に至っても中国明朝様式が建立された当初そのままに残され、日本のお寺とは違った趣きを感じられます。
(使われた材木も東南アジアや南アジアのもの)
例えば総門の屋根の形は、中央が高く左右についた屋根は一段低く造られた牌楼式(ぱいろうしき)。屋根の上には「摩伽羅(まから)」がおかれています。
そして、三門は日本の禅寺だと5間3口ですが、こちらは3間3口。
本堂前には天王殿、内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋さまがまつられています。
日本には無い伽藍配置ですね。
建物内部のアーチ型「黄檗天井」、あちこちに見られる「卍崩しの高欄」、「丸い形の窓」、「桃符(中国では桃は魔除けを意味します)」。
斎堂(食堂)前には魚の形をし口に「球」をくわえた「魚ほう・開板(かいぱん)」など、お寺を回ると次々に目にとまるのです。
萬福寺は日本にいながら、他国のお寺を訪ねたようなそんな気持ちにさせてくれます。
明から日本へ招かれた隠元禅師
隠元禅師は1592年12月7日、福建省の福清県で生まれました。
正しくは隠元隆琦(いんけんりゅうき)といいます。
臨済宗の費隠通容(ひいんつうよう)の後を継ぎ、萬福寺(中国)の32代目住職となりました。
しかし、その頃の中国(明)は清により壊滅寸前でした。
そのような折、隠元禅師の元に長崎興福寺の逸然(いつねん)から、日本で「禅宗」を広めて欲しいとの誘いがきたのです。
悩みましたが、このまま明に残り命までも危うくなるならばと、1654年63才の時に20名の弟子を連れて日本へ渡りました。
徳川4代将軍家綱からいただいた土地に臨済宗萬福寺派として萬福寺を建立。
ですが、隠元禅師の教えは臨済宗とはまた違った教えだったため、「黄檗宗」(おうばくしゅう)という新しい宗派としたのです。
隠元禅師の黄檗宗は、禅と浄土教、密教を融合させた新しいもので、4代将軍家綱や後水尾天皇などといった有力者のバックアップもありました。
説法を聞くため、萬福寺には1000人を超えるほどの人が集まるなど人気は留まることがなかったのです。
人気がありすぎたせいか、どの時代にもよくあることで出る杭はうたれる、隠元禅師にも外出禁止令と、1度の説法に集める人数は200人までとの決まりができてしまいました。
隠元禅師は日本で3年だけの約束で来日しましたが、結局は亡くなる82才までの20年間を日本で過ごされ、1673年5月19日にあの世へ旅立たれたのです。
隠元禅師によって日本に伝えられたもの
今ではほとんどが私達が知るものばかりです。
食物だと、隠元豆・西瓜・レンコン・孟宗竹・煎茶・寒天・普茶料理 など。
※中でも名前についている「インゲン豆」の原産地は中南米ですが、ヨーロッパ~ユーラシア大陸を、通って中国へ。そして隠元禅師によって日本へ伝えられたと言われます。
※そして「釜入り茶・煎茶」といえば「隠元茶」とも言われるほどで、後に隠元禅師の弟子・高遊外は九州の嬉野にお茶の製法を伝えました。
隠元禅師が伝えたお茶は「唐茶」と呼ばれていたもので、それまで日本にあった「蒸す」といったお茶の製法ではなく、「煎る」製法で作られ飲むときにお湯を注ぐだけの簡単な飲み方が出来ました。
色も茶色だったために、茶色の茶が使用されたのです。
お茶は緑色の緑茶をイメージしてしまうため、なぜ「茶」と書かれるのか?その理由は「唐茶」の色からきていたんですね。
食物以外にも、仏教法具の1つ「木魚」も伝えられています。読経の時にポクポクと叩かれる木で作られた魚のことです。
なぜ魚の形なのかというと、魚は眠る時にも瞼がないため目を閉じません。修行僧も、このように精進するようにとの教えだといわれています。木魚にあった合わせた読経も隠元禅師が日本に伝えた形です。
余談ではありますが、木魚が完成するまでには3~10年かかるんだとか。
正面を向いた肖像画・印刷技術なども隠元禅師により日本へきたものです。
当時は日本は鎖国していたために、外国より文化が入ってくることがありませんでした。
そのため、隠元禅師が来日した際、日本へ伝えたものはとても新しく人々の中にうつったこどでしょう。
普茶料理
こちらも江戸時代初期にインゲン豆禅師によって伝えられた中国の精進料理です。
『普茶(ふちゃ)』とは「普く(あまねく)大衆と茶を共にする」といった意味があり、最初は「お寺で行われた行事の後に、労をねぎらうためのお茶と料理」でした。
四大精進料理(普茶料理、高野山料理、大徳寺料理、永平寺料理)の1つで、2汁6菜を基本とします。
食事の仕方は他と違い、1席に4人で座り大皿に盛られた料理を自由に撮って食べるスタイルです。(最近では、個人用にお弁当方式で召し上がれる所もあるようです)
料理自体には、葛・豆腐・胡麻油を多く使った特徴があります。
野菜や乾物を材料にした精進料理ですが、中国に伝わる疑似料理から野菜を元に動物性の食物(魚や肉)に似せて作った品も並ぶんですよ。
普茶料理の内容は、下記のようなものになっています。
・茶礼にのっとった頂き方(順番)
1 澄子(すめ)…蘭茶
2 麻腐(まふ)…胡麻豆腐
3 雲片(うんぺん…吉野葛のあんかけ)
4 冷拌(ろんぱん)…季節の煮物
5 笋羮(しゅんかん)…菜煮盛り合わせ
6 油茲(ゆじ)…野菜の味付け天ぷら
7 素汁(そじゅう)…吸い物
8 行堂(ひんたん)…季節のご飯
見た目もとても彩り良く盛られた料理で、五味(甘味・辛味・塩味・苦味・酸味)を基本とされています。
5味5感で楽しんでいただくことができる、普茶料理なのです。
萬福寺へのアクセス
隠元禅師ゆかりの萬福寺は、ここは中国?と感じてしまうようなお寺です。
近くには宇治平等院や三室戸寺といった京都を代表するお寺があるため見逃されがちですが、ここは一風変わった雰囲気があり、他のお寺にない魅力もたっぷりあります。
アクセスはJR奈良線『黄檗駅』、京阪宇治線『黄檗駅』よりどちらも徒歩5分。
興味を持っていただけたら次に京都にお越しの際は足を運んでみてください。
関連記事:
禅宗の事実上の開祖「慧能(えのう)の生涯」
法然上人の苦悩と迫害を乗り越えた生涯【浄土宗の開祖】
インドにおける仏陀と南伝仏教
この記事へのコメントはありません。