斉明天皇とは
斉明天皇(さいめいてんのう/皇極天皇(こうぎょくてんのう)とも。594~661)は、飛鳥時代に即位した女性天皇の1人で、日本の歴史の中でも珍しい、重祚(ちょうそ。一度退位したあとに再び天皇の位につくこと)を行った天皇である。
中大兄皇子(のちの天智天皇)と大海人皇子(のちの聖武天皇)の兄弟の母であり、大化の改新後は、日本で初めて譲位を行ったとされる。
今回は、そんな斉明天皇(皇極天皇)の生涯や政策について、追っていく。
一度目の即位(皇極天皇として)
一度目の即位の前、彼女はタカラノヒメミコと呼ばれていた。
『日本書紀』によれば、タカラノヒメミコは始め、用明天皇の孫である高向王(たかむくのみこ)と結婚していたが、なんらかの事情で、のちに舒明天皇(じょめいてんのう)と再婚し、中大兄皇子と大海人皇子を出産している。
641年に舒明天皇が崩御すると、天皇の後継者選びは難航した。
候補者には、舒明天皇の第一皇子の古人大兄(ふるひとのおおえ)、厩戸皇子(聖徳太子)の息子である山背大兄王(やましろおおえのおう)など、由緒正しき血筋の皇族たちがいた。
だが、いずれも若年であり、即位の適齢期に満たされていないということで、当時49歳であったタカラノヒメミコが即位することになったのである。
これがタカラノヒメミコ一度目の即位で、この時には皇極天皇と名乗っている。
即位の翌年、飛鳥の地はひどい干ばつに襲われた。
当時は、天変地異は為政者の手腕が悪いために起こると信じられており、大臣の職についていた蘇我蝦夷(そがのえみし)は、名だたる僧たちを呼び出し、おおがかりな雨乞いの儀式を始めた。
しかし、雨乞いの効果はなく、何日たっても雨は降らなかったという(小雨がパラパラと降るくらいだったようだ)。
それを見かねた皇極天皇は、自ら雨乞いを買って出ることにする。
皇極天皇が雨乞いを始めると「たちまち大雨が降り始め、民衆は彼女を讃えた」という記録が残っている。
乙巳の乱と退位
皇極天皇の右腕として大臣職についていた蘇我蝦夷は、朝廷の中での権力を使い、次第に身勝手なふるまいを見せるようになる。
本来は天皇が大臣に授けるべき紫冠を、勝手に息子の蘇我入鹿(そがのいるか)に授けるなど、権力を私物化していった。
このことで蘇我入鹿は調子に乗り、自分の対抗勢力である山背大兄王を襲撃して、一族もろとも滅ぼした。
このことが、蘇我氏に対する評判を落とし、やがて乙巳の変(いっしんのへん)を引き起こすこととなる。
この乙巳の乱(645)の首謀者は、皇極天皇の息子である中大兄皇子
周到に計画されたこのクーデターは、三韓の使者が皇極天皇に貢物を献上するという行事のさなか決行された。
宮中の行事ということで、蘇我入鹿は油断をしていたのか、中大兄皇子が自ら斬りかかるとあっけなく殺害された。
さらに中大兄皇子の軍隊に囲まれて、蘇我蝦夷は邸宅に火を放ち、自害して果てた。
こうしてあっという間に、蘇我一族は滅亡してしまったのである。
当然、これらのことは皇極天皇の目の前で行われ、皇極天皇は、自分の息子が蘇我入鹿を殺害したところをバッチリと見てしまった。
自分の役割の終焉を感じ取った皇極天皇は、弟の軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲ることを決断した。
こうして、孝徳天皇が誕生。日本の歴史の中で行われた、はじめての譲位である。
重祚(斉明天皇として二度目の即位へ)
皇極天皇は、譲位後、中大兄皇子らとともに、新天皇である孝徳天皇のサポートへと回る。
646年に改新の詔が発せられると、天皇家や豪族が所有していた土地や領民を国家のものとし、その代わりに給料を支払う、という公地公民制度を実施。
このことによって、地方豪族の権力を奪い、天皇が国の中心になるという認識を植え付けさせた。
これらは、唐の律令制をベースに考えられ、日本国内での新しい政治のありようを示すものであった。
また、都は飛鳥から難波へと移された。
しかし、方針の違いからか、次第に中大兄皇子と孝徳天皇の仲が悪化。
中大兄皇子は、妻の間人皇后(はしひとこうごう。孝徳天皇の実の娘だった)を引き連れ、飛鳥に戻ることになった。
失意の孝徳天皇は体調を崩し、無念の中崩御。
このことを受け、皇極天皇は、斉明天皇と名前を変え、再び即位することになるのである。
実は日本の長い歴史の中でも、重祚が行われたのはたったの2回であった。
1つ目はこの皇極天皇-斉明天皇の例で、もう1つはここから100年後、8世紀半ばに即位した孝謙天皇―称徳天皇である。
いずれも女性の天皇であった。
斉明天皇の最期
再びの即位後、斉明天皇は、日本を国際的な土地にするために、石材をふんだんにつかった建物を建築させた。
また領土の拡大を目指し、阿部比羅夫(あべひらふ)を将軍に任命すると、北方の蝦夷一族を制圧した。
外交にも積極的で、特に百済と友好な関係を結んでいたようだ。
百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた時には、自ら百済救済の軍隊に参加し、九州に向けて進軍した。
天皇自らが戦地に赴くというのは、長い歴史の中でも数少ない事例である。
しかし、決戦を間近に控えた朝倉宮(現在の福岡県朝倉市)で、突如体調が悪化。
死の間際、「私の墓の造営には、労役を起こすな」と、最後まで民衆への思いやりを見せ、そのまま息を引き取った。
享年68歳であった。
斉明天皇の葬儀の際、朝倉山の山頂には、笠を被った鬼が現れたという言い伝えが残っている。
この鬼とは、朝倉山に鎮座する神さまだったのかもしれないし、もしくは一族を滅ぼされた蘇我入鹿の怨霊だったのではないか、という説もある。
斉明天皇の死後、中大兄皇子は即位し、天智天皇となった。
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