堀尾吉晴とは
豊臣秀吉に仕えた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は武勇に加え、温和で誠実な面を持ち合わせて「仏の茂助」と呼ばれて人望を集めた武将である。
豊臣政権では五大老と五奉行の間を取り持つ三中老に任命されて、関ヶ原の戦い後に堀尾家は出雲国富田24万石となった。
織田・豊臣・徳川と共に戦国時代を生き抜いた、堀尾吉晴について追っていく。
生い立ち
堀尾吉晴は尾張国丹羽郡(現在の愛知県丹羽郡)の土豪・堀尾泰晴の長男として天文12年(1543年)に生まれる。
父・泰晴は岩倉織田氏の織田信安の重臣として仕えていた。
吉晴16歳の永禄2年(1559年)織田信長との岩倉城の戦いで初陣を飾り、一番首をとる武功を挙げる。
しかし、この戦いで主君である岩倉織田氏が滅亡したために、父と共に浪人となってしまう。
浪人時代は約5年間、この間 吉晴は尾張と伊勢を放浪した後に美濃で猟師をしていたという。
猟師をしていた吉晴は信長の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に気に入れられ家臣に召し抱えられて、美濃攻めでは道案内をした。
仏の茂助
堀尾吉晴は秀吉の忠実な家臣として各地の戦を転戦して、秀吉が長浜城主となると100石を与えられた。
姫路で1,500石、丹波・黒江で3,500石とどんどん出世していく。
そんな吉晴は「仏の茂助」(茂助は通称)というあだ名が付けられている。
温和な性格に加えて、浪人時代の苦労があったからだろうと思われる。
吉晴は浪人を多く雇い、仕官先を見つけるなんてことまでしたという。
また、家臣が病気になった時には医師を何人も手配して、小姓をつけて看病までさせている。
しかし、16歳の初陣で一番首をとったり、武勇の話も事欠かない武将であった。
元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、偵察中に敵兵と戦って首をとり信長に認められる。
それ以後の戦いでも数々の武功を挙げたために信長から「堀尾が首をとるのは毎回のことだからもう首を持参しなくても良い」とまで言われている。
丹波の一揆では首級を36も挙げて秀吉から「仏の茂助なんて似合わない名前だ、仏は人を助けるのにお前は首をとっている、今日から鬼の茂助だ」と言われるほどの勇猛さを持っていた。
秀吉との関係
因幡鳥取城の吉川経家や備中高松城の清水宗治など、敵将の切腹の検死役を秀吉から任せられている。
明智光秀と戦った山崎の合戦では、先手の鉄砲頭として天王山で敵将を討ち取るなど様々な武功を挙げ、佐和山城主4万石の大名にまでなっている。
秀吉からは殿(しんがり)や留守役を任せられて「汝が命を三度くれけるよな」(自分の命を3度も捧げている)と言われている。
1度目は賤ヶ岳の戦いで陣を移す時に、城に残ってどっちつかずの武将を見張り、裏切らないようにさせろとの酷な命を受ける。
秀吉から「心変わりした者がいた時には頼む」と言われると吉晴は「もとより命をささげる所存」と即座に引き受ける。
2度目は小牧・長久手の戦いで殿(しんがり)を任されて大軍に囲まれながらも何とか切り抜けている。
九州征伐や小田原征伐でも武功を挙げて、徳川家康が関東に移ると浜松城に入って12万石の大大名の仲間入りを果たす。
3度目は関白の豊臣秀次が、秀吉の怒りを買って出頭を命じられた時の使者を任せられた。
秀吉が「もし、向こうが拒んだらどうする」と聞くと「ご安心ください、よきに計らいます」とだけ答えた。
二人の間には多く語らずとも「抵抗すれば刺し違えて死ぬ覚悟も出来ている」ということが伝わるような関係が出来ていたのだ。
秀吉はこうした調整能力も評価し、豊臣政権の五大老と五奉行の間の調整役の「中老」を吉晴と中村一氏と生駒親正に命じている。
家康との関係
秀吉の死後、徳川家康が豊臣家の許可なく大名との姻戚関係を結び、前田利家や石田三成ら他の四大老や五奉行たちと一触即発状態となる。
吉晴は家康に秀吉の遺言を守るという誓詞を出させて、中老の1人として調整力を見せた。
石田三成が蟄居となると、家康から「伏見城に入れないか」と相談され、四奉行を説得して家康の伏見城入りを実現させる。
こうして家康との関係性が深くなっていくのだ。
慶長4年(1599年)老齢を理由に家督を次男・忠氏に譲って隠居する際に、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。
鬼の茂助
慶長5年(1600年)会津征伐に息子・忠氏と共に従軍しようと浜松の家康に会いにいったが、家康からは忠氏だけで吉晴は越前に戻れと言われる。
これは加賀の前田利長への牽制という意味もあったとされる。
その帰国の途上、吉晴が水野忠重(水野勝成の父)や加賀井重望たちと酒を酌み交わしていると口論となり、加賀井が突然水野に斬りかかって殺害してしまうという事件が起きた。
加賀井は三成に命じられて徳川側の要人の暗殺を命じられていたという説もある。
吉晴も襲われ17箇所もの傷を負ったが、加賀井をその場でなんとか討ち取った。
しかし事件後に部屋に飛び込んで来た水野家の家臣たちに、主君を殺した主犯だと勘違いされてしまったという。
まさに刃傷沙汰に及んだ武将をその場で斬首した「鬼の茂助」の一面が垣間見えるエピソードである。
晩年
吉晴の代わりに関ヶ原の戦いで活躍した世子の堀尾忠氏は、出雲国富田24万石に加増移封となった。
吉晴と忠氏は月山富田城に入ったが、山城であったために新たな城を築こうと候補地を探した。
新城の候補地を探している時に、忠氏は体を壊して27歳という若さで亡くなってしまう。
そして新たな城として松江城の築城を開始して、吉晴は幼い孫・忠晴の後見となった。
慶長16年(1611年)今も現存する12天守の1つの松江城の完成を見て、6月17日享年69歳で死去した。
おわりに
「仏の茂助」こと堀尾吉晴は本当に優しい人物で、100人以上の浪人たちの仕官先の面倒を見たり、武将たちの人間関係の調整役としても大いに活躍した。
自分の武功を語りたがらず、息子に問われても「もう古いことだから」とはっきり答えなかったという、とても謙虚な武将であった。
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