江戸時代の藩政改革と言えば
歴史上には、有名な人がたくさんいますが、偉大さにも関わらず、なぜか知名度が高くない人物も多くいます。
その代表例を上げるなら日本では、江戸時代末期から明治時代初期の漢学者、備中松山藩士「山田方谷(やまだほうこく)」ではないでしょうか。
方谷は、幕末の備中松山藩(現在の岡山県高梁市)で、藩政改革を行った人物です。
江戸時代の藩政改革と言えば「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりにけり」の歌で知られる米沢藩主 上杉鷹山が有名です。
この改革は、鷹山という藩主主導で50年以上をかけて取り組んでいますが、山田方谷の藩政改革は、10万両(約600憶)の借金を8年間という短期間で返済し、余剰金まで蓄えています。
そして、上杉鷹山との大きな違いは、藩政改革を進めたのが藩主ではなく、備中松山藩の農家出身の学者、藩士が改革を成し遂げたところになります。
山田方谷って誰ですか?
山田方谷は、江戸時代後期の備中松山藩領に生まれました。もともとは、武士の家柄でしたが、方谷の曽祖父が自分の長男を勝手に坊主にしたことに腹を立て、その寺の住職を殺し自害してしまいます。この時間で山田家は財産を失い、農業で生計を立てることになります。
方谷の両親は、山田家の再興を願い、方谷を厳しく育てています。方谷もそれに応え、勉学に励み、幼い頃から人並み外れ神童として有名になり、5歳の時には親元から離れ儒学者の塾へ入り勉学に励みます。14歳の時に母と父を相次いで亡くたことから、実家に戻り家業を継ぎます。
方谷は、自宅で働きながら学問に励み、21歳の時には備中松山藩主に優遇されて藩校への出席も許されます。23歳の時には、初めて京都で遊学し、25歳で備中松山藩の藩校 有終館で会頭(教授)となります。
30歳の時には、江戸の佐藤一斎の塾へ入門。当時、門下の佐久間象山と方谷は2人で激論を交わしていたそうです。
そして、方谷は、この門下の塾頭(学長)となります。34歳で備中松山藩の藩校、有終館の学頭となり、約10年間に渡り人材育成に力を注ぎました。
方谷に与えられたミッションとは
これまでの山田方谷の経歴を眺めただけでは、その偉大さはあまり見えてきません。
方谷45歳の時に備中松山藩に板倉勝静(寛政の改革を行った松平定信の孫)が、板倉家の養子に入り、藩主となります。方谷は、藩主となった勝静から元締役兼吟味役(財務大臣)に任命され、藩政改革のミッションを与えます。
この時、備中松山藩の表向きの石高は、5万石(5.7万両)、実際は1万9000石(2.2万両)でした。これに対して支出は、江戸屋敷の費用1.4万両、家中の扶持米8000両、借入金に利息1.3万両などがあり、累積債務は10万両(約600憶)でした。
企業で例えるなら、このまま赤字が続けば、組織は継続できず倒産してしまう危機的状況です。
改革のスタート(6つの藩政改革)
赤字で倒産の道を歩んでいる藩で、方谷が進めた藩政政策は何だったのでしょうか。具体的に見ていきましょう。
方谷は、藩の財政を立て直すために、6つの目標「負債整理」「上下節約」「藩札刷新」「産業振興」「市民撫育」「文武奨励」を進めます。具体的には、下記の通りです。
「負債整理」
多くの重鎮たちの反対を押し切り、藩の実収入が年間1万9000石にしかならないことを借金元の大阪商人に公開し、50年の返済計画を説明し、彼らの信頼を得て返済期限の延期を勝ち取る。
「上下節約」
家中に質素倹約を命じて、藩主から下級藩士まで徹底的な節約を勧め、上級武士には賄賂や接待を受けることを禁止。
「藩札刷新」
過剰発行や偽札が多く出回り、信用を失った藩札を3年かけて回収し新しい藩札との交換を実行し、さらに集めた藩札を高梁川の河川敷で燃やし古い藩札をすべて処理し、新しい藩札を増やし信用は回復させる。
「産業振興」
地域の特産品を活かした「備中鍬」の製造販売、撫育局を設置し、農産物(タバコ、茶、ゆべし、そうめん、和紙)に「備中」というブランドを付け、売り出したところ大ヒットし、莫大な利益を生む。また、中間マージンを無くすため特産物を船で直接、運び、江戸藩邸で直売も行った。
「市民撫育」
下級武士や農民など立場の弱い人を守ることも徹底して行い、その一つとして学問を学ぶ機会を均等にした。藩士以外の領民の教育にも重点を置き、優秀者は出身に関わらず藩士に登用するという人材育成を行った。
「文武奨励」
文字通り、武士に対しては文武両道を奨励した。藩の戦力確保のために、農民を訓練し隊として組織「農兵隊」を作った。この農兵隊は、士農工商の身分を打ち破って兵の組織で、高杉晋作の「奇兵隊」のモデルとなる。
どうして、山田方谷の知名度が低いのか
江戸時代後期に活躍した山田方谷は、財政家として敏腕を振るい、幕末の混乱期には藩を滅亡の危機から回避させたことから、全国的にも有名で新政府の大久保利通から「大蔵大臣就任の要請」がたびたびありました。
しかし、これを断り続け中央に出て行くことは無く、表舞台に背を向けるように身を引いてしまったことで、実績も名前を忘れ去られてしまいました。
晩年の山田方谷は、岡山にある日本最古の庶民学校閑谷学校を再興し、生涯を人材育成に注力しました。
そして、明治10年(1877)6月26日一教育者として亡くなります。方谷が育てた弟子は全国に1000人以上。その中には、方谷の意志を継ぐ弟子として、二松学舎大学を創立した三島中洲などがいます。
幕末の方谷が進めた藩政改革は、現代の企業再生、不況から抜けはじめた日本再生へのヒントとなることが多いのではないでしょうか。
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