安土桃山時代

武士に憧れた公家・近衛信尹の苦悩【秀吉が関白を奪う原因を作り公家から袋叩きにされ心を病む】

公家(イメージ画像)

近衛信尹とは

近衛 信尹(このえ のぶただ)は、公家でありながら武士に憧れ、豊臣秀吉の朝鮮出兵に参陣しようとした人物である。

関白になる予定だったが、時の権力者「豊臣秀吉」に関白の座を奪われ、そのことが原因で公家社会から孤立し心を病む。

そして摂関家のエリートでありながら武士になろうと無茶な行動を起こし、天皇の怒りを買って薩摩へ流罪となった。

しかし書道・和歌・連歌・絵画・音曲諸芸に優れた才能を持っており、書の世界では後に「寛永の三筆」と称えられた。

関ヶ原の戦い後は、島津家と徳川家康の仲介を行い、島津家の所領安堵に貢献した。

今回はそんな波乱万丈の公家・近衛信尹について解説する。

武士に憧れた

近衛信尹(このえのぶただ)は永禄8年(1565年)11月1日、公家・近衛前久(このえさきひさ)の嫡男として生まれる。
近衛家は公家の五摂家の一つで、本姓は藤原氏である。藤原忠通の四男・近衛基実を家祖とする。
幼い頃より父・前久と共に各地を放浪していた。

父・前久は織田信長上杉謙信らと親交があり、武術にも長けていた。
信尹も公家との付き合いよりも武家との付き合いが多く、織田信長の小姓・森蘭丸森坊丸と仲が良く武士に憧れていた。

天正5年(1577年)に元服するが、その際の加冠の役は信長が務め、一字を賜って初名を「信基」と名乗る、その後→「信輔」→「信尹」と変えている、ここでは信尹(のぶただ)と記させていただく。

天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣と、順調に出世していく。

関白相論

近衛信尹とは

豊臣秀吉

天正7年(1579年)、織田信長はそれまで就任していた右大臣兼右近衛大将の官職を辞任する。
しかし、天下統一に近いところにいた信長に官位を与えないというのは、朝廷の権威を損なうことになりかねなかった。

そこで天正10年(1582年)5月、朝廷は信長に「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のうち好きな官職を与えるとしたが、その翌月に「本能寺の変」が起こり信長は亡くなってしまう。

その後、次の天下人に名乗りを上げた豊臣秀吉は、一気に従三位から内大臣にまで上り詰めた。
秀吉の飛ぶ鳥を落とす勢いに朝廷は内大臣では不足と考え、信長と同じ右大臣の官職を打診する。

しかし、秀吉は「信長様は右大臣を辞したまま明智光秀に討たれているので、縁起が悪いから左大臣にしてくれ」と要求した。

関白相論

信尹は当時左大臣で一年後に関白になる予定となっていたが、秀吉の要求通りに進めばすぐに左大臣を辞任しなければならないこととなる。

つまり現役の大臣ではない状態で一年後に関白就任という形になる。

信尹は「近衛家では前官(現役ではない)で関白になった例はない」と主張し、これに反発した。

そして関白に就任したばかりの二条昭実(にじょうあきざね)に、一年後ではなくすぐに関白を譲るようにと迫った。

しかし昭実は「二条家では初めて関白に就任した者が一年以内に辞めた例はない」と反発。

近衛信尹と二条昭実の二人は競って大坂城の秀吉を訪問し、自己の正当性を主張した(※この事件は関白相論と呼ばれる)

近衛信尹とは

二条昭実(にじょうあきざね)

秀吉は重臣・前田玄以らと協議し、秀吉が信尹の父・近衛前久の猶子(ゆうし)として関白を継ぎ、将来的に信尹を後継として関白を譲る案を提示した。(※猶子とは他人の子と親子関係を結ぶ制度で、養子よりも広義で緩やかな親子制度

信長が以前「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のどれかに任官することが提案されていたという根拠もあった(この提案は朝廷側によるものか信長側によるものかは不明 ※三職推任問題
他には「征夷大将軍」には相応な家柄が条件であり、農民出身の秀吉が「征夷大将軍」になることは出来なかったという説もある。

その結果、天正13年(1585年)7月11日、秀吉は関白に就任し、信尹は700年以上も続く摂関家(せっかんけ)の伝統を潰したとして公家社会から孤立してしまった。(※摂関家とは摂政・関白の地位を独占し続けていた最上級の公家で全て藤原氏。藤原氏以外の者が関白となることは初だった

その後、秀吉は約束を破り、甥・豊臣秀次に関白を譲り、関白は藤原家ではなく豊臣家が世襲する形となっていった。

過去に源頼朝足利尊氏が任官した「征夷大将軍」はあくまで武家の棟梁であったが、秀吉はそれをさらに超える「武家関白」として、公家と武家、両方の棟梁になろうとしたのである。

このことに苦悩した信尹は次第に「心の病」に悩まされるようになり、文禄元年(1592年)正月に左大臣を辞任した。

武士になろうとして薩摩へ流罪となる

秀吉が朝鮮への文禄の役を起こすと、信尹は以前から憧れていた武士になりたかったのか、文禄元年(1592年)12月に朝鮮半島に渡るために肥後国名護屋城に赴いた。

さすがにこの行動は奔放すぎるとして後陽成天皇や秀吉の怒りを買ってしまい、文禄3年(1594年)4月、信尹は薩摩・坊津へ3年の流罪(配流)となり、45人の供を連れて坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に赴いた。

近衛信尹とは

※島津義久像(東京藝術大学大学美術館蔵)

しかし薩摩の島津義久に厚遇された信尹は薩摩を気に入り、あちこちを散策しては和歌を詠み、人々に書道や絵画、御所言葉など都の文化を伝えている。

慶長元年(1596年)9月に勅許が下り京都に戻るが、よほど薩摩を気に入ったのか「もう1~2年いたい」と書状に残しているほどだ。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの後、信尹は敗走する島津義久の重臣・喜入忠政押川公近らを京都で匿い、一行は無事に薩摩に戻ることが出来た。
また、島津家と徳川家康との交渉を仲介し、家康から島津家の所領安堵確約を取り付けた。

慶長6年(1601年)には左大臣に復職し、慶長10年(1605年)には念願の関白に就任している。

慶長11年(1606年)に関白を鷹司信房に譲り、慶長19年(1614年)11月25日に亡くなる。享年50歳であった。

信尹には庶子しかいなかった(正室の子がいなかった)ので、後陽成天皇の第4皇子・二宮を後継として選び「近衛信尋(このえのぶひろ)」と名乗らせた。

寛永の三筆

近衛信尹とは

近衛信尹筆和歌屏風 東京国立博物館蔵

信尹は書道・和歌・絵画・音曲諸芸に優れた才能を見せ、特に書道は青蓮院流を学び、自分の一派を「三藐院流」「近衛流」と称した。

信尹の書は強い筆線で大字の仮名で、異色の書風を現出していたという。
本阿弥光悦・松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。

現在も東京国立博物館に近衛信尹筆和歌屏風が展示されてある。

連歌を通じて黒田官兵衛とも付き合いがあり、官兵衛に「島津家を助けてほしい」という内容の手紙を書いている。

おわりに

近衛信尹は関白相論問題で、結果的には関白の座を豊臣家に奪われ、藤原家700年の伝統を破壊する直接の原因を作ってしまった。

そのことで心を病み、「武士になりたい」という幼い時からの夢を叶えようと無謀な行動を起こし、薩摩へ左遷されてしまう。

しかし、薩摩では島津家に厚遇され和歌や書道などの文化を伝え「もっと薩摩にいたい」と言うほど薩摩を気に入り、徳川政権になっても薩摩を庇い援助し続けた。

その後、念願の関白に就任し、後世に残る文化も生み出した。

どこか憎めない性格というか愛すべき人物像だったことが、史料に残る行動を見るだけで伝わってくる。

 

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