安土桃山時代

大久保彦左衛門 〜「無欲と言うか頑固と言うか…立身出世に目もくれなかった戦国武将」

戦国時代、犬にも喩えられる忠義の篤さで知られた三河(みかわ。現:愛知県東部)の武士たち。

徳川家康(とくがわ いえやす)の覇業を支えた有名無名の勇者たちは、又たいそう頑固な性格でも知られました。

大久保彦左衛門

三河武士きっての頑固者・大久保彦左衛門忠教。Wikipediaより。

今回紹介するのは、その中でも特に頑固者として家康さえもあきれ返った大久保彦左衛門忠教(おおくぼ ひこざゑもんただたか)のエピソード。

数々の戦場で武功を立てながら、筋金入りの頑固さ、不器用さゆえに出世できず、一生貧乏だった彦左衛門。今回は何を言い出すのでしょうか。

貧乏生活の中、次兄から2万石を譲られる

彦左衛門は松平(まつだいら。後の徳川)家に代々仕えた譜代の家臣・大久保平右衛門忠員(へいゑもん ただかず)の八男として永禄3年(1560年)に誕生しました。

幼名は平助(へいすけ)。長兄から大久保忠世(ただよ。七郎右衛門)、大久保忠佐(ただすけ。弥八郎)、大久保忠包(ただかね。大八郎)、大久保忠寄(ただより。新蔵)、大久保忠核(ただたね。勘七郎)、大久保忠為(ただため。彦十郎)、大久保忠長(ただなが。甚右衛門)、そして弟の大久保忠元(ただもと。九郎兵衛)と、兄弟そろってみんな頑固だったそうで、ひとたび兄弟喧嘩など起こったら、さぞや始末に困ったことでしょう。

さて、そんな彦左衛門は17歳となった天正4年(1576年)に初陣を飾って以来、各地を転戦。天正18年(1590年)に長兄・忠世が相模国小田原城(現:神奈川県小田原市)に入り、4万石の大名になると、3千石の領地を与えられたのでした。

「本来ならばもっと与えたいが……」

「なぁに、知行など少ない方が『もっと増やしたい』と思って、奉公にも身が入るというもの。それがしには丁度ようござる」

元から貧乏暮しには慣れていた彦左衛門は一向構うことなく忠勤に励みましたが、慶長18年(1613年)、次兄の忠佐より報せが届きます。

大久保彦左衛門

徳川十六神将の一人として大いに武勇を奮った大久保忠佐。Wikipediaより。

「平助よ、此度そなたを養子に迎えたいのじゃが……」

聞けば4月14日、忠佐の嫡男・大久保長十郎忠兼(ちょうじゅうろう ただかね)が15歳という若さで早逝してしまい、このままでは無嗣改易(むしかいえき。御家に跡継ぎがいないため、領地を没収)されてしまうと言うのです。

「どうか、駿河国沼津(現:静岡県沼津市)2万石を受け継いではくれぬか……?」

これこそまさに「棚から牡丹餅」、3千石から2万石となれば、一気に6倍以上の収入アップ……これを受けない手はないでしょう。

しかし、彦左衛門は首を縦には振りませんでした。いったいどういう理由があるのでしょうか。

2万石を蹴った彦左衛門の頑固な忠義

「此度それがしを2万石の領主にお見込み下さったは身に余る光栄なれど、その2万石は我が槍働きによるものではなく、それがしには資格がござらぬ。よって、養子の件はお断り申す」

予想外の返答に慌てた忠佐は、必死に説得を試みます。

「そんな馬鹿な……よいか平助。確かに沼津の2万石はそなたではなく、わしの槍働きによるものであるが、それを同じ大久保一族であるそなたへ譲ることに、何の問題があろう。このままでは、我が勲功による2万石が召し上げられてしまう……そなたの気持ちも解らんではないが、どうかここは枉(ま)げてくれまいか」

自分が生涯をかけて獲得してきた領地を、次世代へと受け継ぐことで、自分の生きた証を遺したい……もはや老い先短い(当時77歳)忠佐の切なる願いに、普通の者であれば折れたことでしょう。が。

「お断り申す!そもそも領地とは主君のものであり、我らはそれをご奉公に用立てるため、いっときお預かりしているに過ぎませぬ!兄上が亡くなられ、跡継ぎがおらぬなら、主君にお返しするのが道理にはございませぬか!」

議論はどこまでも平行線をたどり、結局のところ忠佐は9月27日に死去。沼津2万石はそのまま没収されてしまったのでした。

「……これでよい。もし此度の話を受けておれば『彦左衛門は兄弟の縁にかこつけて主君の2万石を横領した』などと世の物笑いとなろう……」

いっそ清々した彦左衛門でしたが、翌慶長19年(1614年)1月19日に忠世の嫡男・大久保新十郎忠隣(しんじゅうろう ただちか)が『謀叛の疑い』によって改易されると、連帯責任で彦左衛門も改易。たちまち路頭に迷ってしまいます。

「それでも耐えよ……我ら譜代は、御家の犬ぞ……ひたすら耐えよ、何があろうと、いかなる仕打ちを受けようと……!」

大久保彦左衛門

たとえ自分は困窮しても、召し抱えていた浪人たちの仕官運動にも熱心だった彦左衛門(イメージ)。

いよいよ困窮した彦左衛門ですが、さすがに家康も哀れに思ったのか、徳川家の直臣(じきしん)として召し出され、三河国額田(現:愛知県額田郡)に1,000石を拝領しました。

「……石高よりも、また主君のために奉公できることをこそ、喜ぼうぞ……」

鬱屈した思いを抱えながらも彦左衛門は、家康の亡き後も徳川秀忠(ひでただ)、徳川家光(いえみつ)と徳川3代にわたって奉公し、家光の代になって1,000石を加増されて2千石となります。

エピローグ

そして戦国乱世も遠い昔のこととなった寛永16年(1639年)2月29日に80歳でこの世を去りますが、死の間際に家光から5千石に加増する話を打診されました。

「のぅ、大久保の爺よ。そなたも子らに遺すものが欲しかろう?」

それを聞いた彦左衛門は、笑って辞退したと言います。

受け継がれる大久保の精神。

「……それがしが子らに遺すものは、何があっても主君を裏切ることのない忠義の精神と、大久保の誇り。ただそれだけにて、外はいっさい余計にございまする……」

「まったく……爺らしい頑固さじゃのぅ」

いかなる地位も財産も、主君への奉公に必要な分を預かるのみ……彦左衛門のあまりにも頑固で不器用な精神が、現代に生きるすべての公人たちに受け継がれかしと願うばかりです。

※参考文献:
藤野保『徳川幕閣―武功派と官僚派の抗争 (中公新書 88)』中公新書、1965年12月
三津木國輝『大久保忠世・忠隣』名著出版、2000年1月

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. なぜ豊臣家は滅んだのか? 理由や原因を考察
  2. 戦国時代の行動が過激すぎるDQN四天王 ~「カッとなるとすぐ殺す…
  3. 本庄繁長『一度は上杉に背くも越後の鬼神と称された武将』
  4. 武田勝頼は本当に無能だったのか?
  5. 戦国武将の知恵袋! 黒田官兵衛に学ぶ「倹約術」とは
  6. 尼子晴久 ~謀神・毛利元就を何度も破るが、なぜか評価の低い大名
  7. 武士の嗜み「武芸四門」とは?武田軍の最高指揮官・山県昌景(橋本さ…
  8. 秀吉亡き後、なぜ黒田家は家康に味方したのか? 小早川秀秋を裏切…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

葛飾北斎の魅力「あと5年で本物になれた」画狂老人

穏やかな広重に対し、色鮮やかでダイナミックな北斎の浮世絵版画。しかし、彼はどこまでも貪欲であった。特…

ここまで進化した!豪華バスの旅について調べてみた

以前、豪華寝台列車について調べましたが、豪華な旅が人気になっているのは鉄道だけではありません。…

日本の正月の習慣の由来について調べてみた

はじめに日本の正月には、さまざまな習慣がある。「どこの家庭でもやっていることだろう」とあまり…

河上彦斎 「文句があるなら黙って殺せ!」幕末の「四大人斬り」

「文句があるなら、陰で愚痴ってないで当人に直接言えばいいのに……」世の中、そう思うことは少な…

榛名湖イルミネーションフェスタに行ってみた

ゲーハーです。先日、地元の群馬県にある榛名山榛名湖で開催しているという、榛名湖イルミネーションフェス…

アーカイブ

PAGE TOP