戦国時代、犬にも喩えられる忠義の篤さで知られた三河(みかわ。現:愛知県東部)の武士たち。
徳川家康(とくがわ いえやす)の覇業を支えた有名無名の勇者たちは、又たいそう頑固な性格でも知られました。
今回紹介するのは、その中でも特に頑固者として家康さえもあきれ返った大久保彦左衛門忠教(おおくぼ ひこざゑもんただたか)のエピソード。
数々の戦場で武功を立てながら、筋金入りの頑固さ、不器用さゆえに出世できず、一生貧乏だった彦左衛門。今回は何を言い出すのでしょうか。
貧乏生活の中、次兄から2万石を譲られる
彦左衛門は松平(まつだいら。後の徳川)家に代々仕えた譜代の家臣・大久保平右衛門忠員(へいゑもん ただかず)の八男として永禄3年(1560年)に誕生しました。
幼名は平助(へいすけ)。長兄から大久保忠世(ただよ。七郎右衛門)、大久保忠佐(ただすけ。弥八郎)、大久保忠包(ただかね。大八郎)、大久保忠寄(ただより。新蔵)、大久保忠核(ただたね。勘七郎)、大久保忠為(ただため。彦十郎)、大久保忠長(ただなが。甚右衛門)、そして弟の大久保忠元(ただもと。九郎兵衛)と、兄弟そろってみんな頑固だったそうで、ひとたび兄弟喧嘩など起こったら、さぞや始末に困ったことでしょう。
さて、そんな彦左衛門は17歳となった天正4年(1576年)に初陣を飾って以来、各地を転戦。天正18年(1590年)に長兄・忠世が相模国小田原城(現:神奈川県小田原市)に入り、4万石の大名になると、3千石の領地を与えられたのでした。
「本来ならばもっと与えたいが……」
「なぁに、知行など少ない方が『もっと増やしたい』と思って、奉公にも身が入るというもの。それがしには丁度ようござる」
元から貧乏暮しには慣れていた彦左衛門は一向構うことなく忠勤に励みましたが、慶長18年(1613年)、次兄の忠佐より報せが届きます。
「平助よ、此度そなたを養子に迎えたいのじゃが……」
聞けば4月14日、忠佐の嫡男・大久保長十郎忠兼(ちょうじゅうろう ただかね)が15歳という若さで早逝してしまい、このままでは無嗣改易(むしかいえき。御家に跡継ぎがいないため、領地を没収)されてしまうと言うのです。
「どうか、駿河国沼津(現:静岡県沼津市)2万石を受け継いではくれぬか……?」
これこそまさに「棚から牡丹餅」、3千石から2万石となれば、一気に6倍以上の収入アップ……これを受けない手はないでしょう。
しかし、彦左衛門は首を縦には振りませんでした。いったいどういう理由があるのでしょうか。
2万石を蹴った彦左衛門の頑固な忠義
「此度それがしを2万石の領主にお見込み下さったは身に余る光栄なれど、その2万石は我が槍働きによるものではなく、それがしには資格がござらぬ。よって、養子の件はお断り申す」
予想外の返答に慌てた忠佐は、必死に説得を試みます。
「そんな馬鹿な……よいか平助。確かに沼津の2万石はそなたではなく、わしの槍働きによるものであるが、それを同じ大久保一族であるそなたへ譲ることに、何の問題があろう。このままでは、我が勲功による2万石が召し上げられてしまう……そなたの気持ちも解らんではないが、どうかここは枉(ま)げてくれまいか」
自分が生涯をかけて獲得してきた領地を、次世代へと受け継ぐことで、自分の生きた証を遺したい……もはや老い先短い(当時77歳)忠佐の切なる願いに、普通の者であれば折れたことでしょう。が。
「お断り申す!そもそも領地とは主君のものであり、我らはそれをご奉公に用立てるため、いっときお預かりしているに過ぎませぬ!兄上が亡くなられ、跡継ぎがおらぬなら、主君にお返しするのが道理にはございませぬか!」
議論はどこまでも平行線をたどり、結局のところ忠佐は9月27日に死去。沼津2万石はそのまま没収されてしまったのでした。
「……これでよい。もし此度の話を受けておれば『彦左衛門は兄弟の縁にかこつけて主君の2万石を横領した』などと世の物笑いとなろう……」
いっそ清々した彦左衛門でしたが、翌慶長19年(1614年)1月19日に忠世の嫡男・大久保新十郎忠隣(しんじゅうろう ただちか)が『謀叛の疑い』によって改易されると、連帯責任で彦左衛門も改易。たちまち路頭に迷ってしまいます。
「それでも耐えよ……我ら譜代は、御家の犬ぞ……ひたすら耐えよ、何があろうと、いかなる仕打ちを受けようと……!」
いよいよ困窮した彦左衛門ですが、さすがに家康も哀れに思ったのか、徳川家の直臣(じきしん)として召し出され、三河国額田(現:愛知県額田郡)に1,000石を拝領しました。
「……石高よりも、また主君のために奉公できることをこそ、喜ぼうぞ……」
鬱屈した思いを抱えながらも彦左衛門は、家康の亡き後も徳川秀忠(ひでただ)、徳川家光(いえみつ)と徳川3代にわたって奉公し、家光の代になって1,000石を加増されて2千石となります。
エピローグ
そして戦国乱世も遠い昔のこととなった寛永16年(1639年)2月29日に80歳でこの世を去りますが、死の間際に家光から5千石に加増する話を打診されました。
「のぅ、大久保の爺よ。そなたも子らに遺すものが欲しかろう?」
それを聞いた彦左衛門は、笑って辞退したと言います。
「……それがしが子らに遺すものは、何があっても主君を裏切ることのない忠義の精神と、大久保の誇り。ただそれだけにて、外はいっさい余計にございまする……」
「まったく……爺らしい頑固さじゃのぅ」
いかなる地位も財産も、主君への奉公に必要な分を預かるのみ……彦左衛門のあまりにも頑固で不器用な精神が、現代に生きるすべての公人たちに受け継がれかしと願うばかりです。
※参考文献:
藤野保『徳川幕閣―武功派と官僚派の抗争 (中公新書 88)』中公新書、1965年12月
三津木國輝『大久保忠世・忠隣』名著出版、2000年1月
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