幕末おいては、諸外国との関わり方に対してある特徴的な思想がある。それが「攘夷思想」だ。
「攘夷」とはもともと、「夷人(外国人)を攘う(はらう)」といういわゆる排外主義の一種である。そんな「攘夷論」のあった幕末日本において、「雄藩」と呼ばれる力を持っていた藩が、外国と戦争になる事態が発生した。
その中でも著名なものが「薩英戦争」と「下関戦争」であろう。この記事では、そのうち長州藩で発生した「下関戦争」について解説してみよう。
目次
海峡を封鎖して海外の船を追い払おうとした長州藩
なぜ下関戦争が起こったかについては、当時日本にあった「攘夷」派と「開国」派の対立について触れなければならない。
こと「攘夷」については、「尊皇攘夷」という言葉が有名であるが、もともとは攘夷とは外国からの侵略(文化的な侵略を含む)を排除する、とする思想を基本としている。これに、「国学」と呼ばれるいわゆる日本国へのナショナリズム、ひいては「勤皇(尊皇)」思想が結びつき、「尊皇攘夷」という論が形成されていった。
「尊皇」とはもともと天皇に対する忠義を尽くすという意味であるが、特に下関戦争の舞台となった長州藩においては、文久2年(1862年)の坂下門外の変以降、尊皇攘夷が藩論としてまとまっていた。ただし、攘夷とは元来、西洋列強との貿易が日本国にとって有益ではない(日本の貴重な品が輸出されるが、日本にはメリットがない)という論であり、必ずしも武力でもって外国船を追い払うということを意味しない。
しかしながら、長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ「馬関(下関)海峡」に砲台を設置し、海峡を封鎖することとなった。
なぜ当時の日本で「攘夷」が支持されたのか
攘夷論については、先に述べたようにナショナリズム的な側面もあるが、むしろ重要なのは経済的な問題であった。
江戸幕府が1860年に発令した「五品江戸廻送令」にはその片鱗が見える。諸外国との貿易は、商人にとっては日本国内で販売するよりも高い利益を得られることとなった。これによって、日本国内の問屋に納入される商品が一気に減少し、流通体制に支障が生じ始めたため、五品江戸廻送令が発令されたのである。
また、問題は貨幣にもあった。日本と諸外国が締結した当時の条約においては、金銀の交換比率に問題があった。具体的な説明は省くが、日本の通貨である「小判」に含まれる金に着目した海外の商人は、両替商のもとで海外銀貨を日本の銀貨に変えたのち、その銀貨を日本の金貨である小判に両替し、それを地金(貨幣ではなく「金」)として売却することで、当初の貨幣よりも多くの売却益が得られるという仕組みだった。これにより、日本国内から大量の金が流出することになった。
「攘夷」には、このような「(外国との)貿易は有害で無益である」という論が前提としてあったわけであり、必ずしも神国思想や尊皇思想、ひいてはナショナリズムをもとに形成されたわけではないのである。現代から見れば、この点については諸外国との不平等条約が問題であったことに加え、幕府はせめて貨幣の交換レートだけでも維持したかったが、諸外国からの圧力でそれが実現できなかったことこそが問題の真髄と見ることもできよう。
攘夷決行、アメリカ・フランスvs長州藩
舞台は文久3年に移行する。この年の5月10日、長州藩は馬関海峡の砲台とともに、兵1000、帆走軍艦2隻、蒸気軍艦2隻という体制で、いよいよ「攘夷」を実行した。
まず標的となったのはアメリカ商船「ペンブローク号」であり、次に5月23日にはフランスの通報艦キャンシャン号、5月26日にはオランダ外交代表を乗せた「メデューサ号」をそれぞれ砲撃した。ペンブローク号は損傷した記録はないが、キャンシャン号、メデューサ号はそれぞれ船体に被弾、また水兵にも死傷者を出している。なお、この攻撃は完全に無通告によって行われた。
さて、被害を受けたアメリカ・フランスはというと、はやくも6月1日には横浜に入港していたスループ艦「ワイオミング」が報復攻撃を行った。ワイオミング号は沿岸砲台の射程外から長州藩の軍艦に砲撃を加えた。長州藩側の軍艦も応戦したが、圧倒的に性能の勝るワイオミング号の相手にはならず、長州藩は軍艦2隻を撃沈され、1隻は大破した。
さらに6月5日、フランス東洋艦隊所属の「セミラミス号」「タンクレード号」が報復攻撃に現れた。すでに船が壊滅状態である長州藩は砲台で応戦したが、セミラミス号は搭載した35門の砲によって沿岸砲台を徹底的に破壊し、さらに兵を上陸させて砲台を占拠した後に撤退した。
どうしてこうなった…アメリカ・イギリス・フランス・オランダ連合軍vs長州藩
アメリカ・フランス艦隊との戦闘によって諸外国の手強さを思い知った長州藩であったが、態度が軟化することはなかった。
長州藩では高杉晋作を中心とした奇兵隊のほか、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊といった隊を編成し、砲台を強化して海峡封鎖を続行することとしたのである。さらに、幕府は無断で外国船を砲撃したことについて、旗本の中根市之丞を軍艦「朝陽丸」に乗せて派遣したが、長州藩はこの「朝陽丸」を拿捕、戦闘で失った長州藩の軍艦の代用とし、中根市之丞は暗殺された。
諸外国は外交的な解決を望んだが、長州藩は強硬姿勢を崩さなかったため、元治元年7月27日、今度は四カ国の連合艦隊が長州藩を攻撃することになった。イギリス軍艦9隻、アメリカ改造軍艦1隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻の、計17隻にもなる艦隊だった。迎え撃つ長州藩は兵2000人、砲が100門程度であった。
四カ国の連合艦隊は8月5日、前田・壇ノ浦・州岬砲台などを次々と砲撃、これを圧倒的な火力で破壊していった。8月7日には今度は彦島にある砲台群を攻撃、大砲を鹵獲した。長州藩兵は上陸してきた兵と交戦したものの、旧式銃や弓矢を中心とした武装は連合軍との差が圧倒的であり、あえなく敗退することとなった。
8月8日になって、とうとう長州藩は高杉晋作を使者として、四カ国に対して講和を申し出ることとなった。
下関戦争の終結と講和
長州藩は局地的な戦闘では砲撃によって艦隊を一時混乱させるなど善戦したものの、すべての戦闘において損害の程度は圧倒的であり、講和においても厳しい要求が突きつけられた。賠償金の額は300万ドルに及び、このほか下関砲台の撤去や外国船の下関上陸許可、航海に必要な物資の売渡しなどが条件に含まれた。
しかしながら300万ドルという賠償金は、長州藩が負担することなく幕府が支払うこととなった。これは、外国船への攻撃は幕府の命令に従ったという長州藩の主張を根拠としたものであった。なお、この後長州藩は禁門の変の影響もあり、幕府からの攻撃を受けることになる。(※第一次長州征伐)
隠れたファインプレー?長州藩の講和工作
長州藩は四カ国から示された要求のほとんどを無条件に受け入れたが、ただ一点、「彦島の租借」だけは頑として拒否した。彦島の租借を拒否したのは高杉晋作であったという説があり(伊藤博文による自伝)、当時の清国の状況を見た高杉が、彦島の租借は「実質的には植民地化されることを意味する」ということを見抜いていたためともされている。
彦島の租借を拒否したのが高杉であるという公的な記録はなく、またイギリス側から彦島の租借を要求したという会議録はないため真偽は定かではないが、当時の列強のやり方を見れば、まったく信憑性がないとも言い切れない逸話である。いずれにせよ、彦島をはじめ領土の一部さえも租借されなかったことが、のちの日本にとって結果的に救いとなったことは疑いようがない。
おわりに
実際のところ、長州藩のみの戦力で海外の艦隊を相手に攻撃を行うという決断がいかに無謀であったかは、おそらく当時の人々もほとんどが認識していたであろう。ただ単に「砲撃」をして「駆逐」することができても、当然その後に報復攻撃があることは予測できたはずだ。
しかしながらそうした冷静な計算を行ってなお、攘夷を実行するだけの理由が長州藩にはあったし、「異国を打ち払う」というスローガンは、現代で言うところのナショナリストを焚きつけるには充分だっただろう。真に不幸であったのは藩そのものではなく、「勤皇」「攘夷」に燃える意思を利用された兵や志士であり、砲撃によって家を焼かれた民衆だったのかもしれない。
国際社会という難敵との戦いは砲や軍艦ではなく、まずは外交と条約によるべきであったのだろうが、それも所詮は理想論である。諸外国と比べ力関係に劣っていた日本という国はこの後も不平等条約と戦い続け、やっと勝ち取った「国際社会の一員」たる資格もまた、太平洋戦争を迎え喪失することになるのである。
関連記事:
結果は意外にも「引き分け」薩英戦争について調べてみた
高杉晋作【奇兵隊を創設した風雲児】
禁門の変 ~幕末のターニングポイントとなった京都市街戦
この記事へのコメントはありません。