上田馬之助とは
上田馬之助(うえだうまのすけ)とは、肥後新田藩・細川家に仕えた藩士で、幕末江戸三大道場・鏡新明智流の「士学館」に入門し、4代目・桃井春蔵の弟子として頭角を現し「桃井の四天王」と謳われ、「士学館」の筆頭的存在になった幕末の剣豪である。
同時期に新選組にいた上田馬之助とは同姓同名の別人で、上田馬之丞、上原馬之助、植原右馬之助らも新選組の上田馬之助の別名である。
「位の桃井」と評判の師・桃井春蔵に随行し、当時九州一の剣士と言われた松崎浪四郎に師・桃井は敗れたが、上田馬之介は引き分けて「士学館」の名誉を守った。
しかし、生来の乱暴者で師からは「またやったか」と言われるほど刃傷沙汰を起こしている。
明治維新後には警視庁に入って武術を取り仕切り、警視庁流撃剣形・居合形を制定した。
数々の事件を起こした幕末の剣豪で暴れん坊、しかし明治維新後は警視庁に入るという激動の生涯を送った上田馬之助について迫る。
出自と桃井の四天王
上田馬之助は天保2年(1831年)江戸定府であった肥後国新田藩の藩士の子として生まれ、諱は「美忠(よしただ)」と言ったが、ここでは一般的に知られる「馬之助」と記させていただく。
幕末の江戸三大道場の1つである鏡新明智流の四代目・桃井春蔵の「士学館」に入門した馬之助は剣術の才能を開花させ、坂部大作・窪田晋蔵・兼松直廉と共に「桃井の四天王」と呼ばれ、志学館を代表する存在となっていった。
松崎浪四郎との立ち合い
「士学館の四天王」として他流試合にも積極的で、安政2年(1855年)師の桃井春蔵と共に豊後国の岡藩江戸藩邸において当時「九州一の剣豪」と名高い久留米藩士・松崎浪四郎と試合を行うことになった。
松崎浪四郎は神陰流の免許と宝蔵院流の免許を受け、神陰流の奥免許を受けた剣術と槍術の達人である。
この年の3月に江戸へ武者修行に来て、5月8日に鏡新明智流・桃井春蔵と馬之助、神道無念流・斎藤新太郎、北辰一刀流・千葉栄次郎と試合をすることになったのである。
江戸三大道場の剣客と九州一の剣豪との勝負に江戸中は沸き返った。
松崎は「位の桃井」こと桃井春蔵を破る大金星を挙げ、更に「力の斎藤」こと・練兵館の斎藤新太郎(斎藤弥九郎の長男)にも勝利する。
師・桃井の雪辱を果たそうとした馬之助とは引き分けとなり、「技の千葉」こと玄武館の千葉栄次郎(千葉周作の次男)にこそ敗れたものの、松崎はその名を江戸中に轟かせた。
松崎となんとか引き分けに持ち込めた馬之助は、士学館の名を汚さずにメンツを保つことが出来たのである。
こうして馬之助は全国には腕の立つ剣客・剣豪がいることを知り、九州に巡国修業の旅に出発した。
吉田某との立ち合い
薩摩でに修行中、日向で天自然流の吉田某と立ち合うことになったが、吉田の流儀は面・籠手だけで胴をつけてはいなかった。
胴の着用について2人の間で押し問答が続いたが、馬之助が吉田の前で木に巻き付けた竹胴を竹刀で折り、更に四分板を突き破って見せた。
するとこれを見た吉田は無言でしおしおと胴をつけ、馬之助が完勝したという逸話がある。
喧嘩上等!
馬之助は道場だけでは飽き足らず、度々刃傷沙汰も起こしていたという。
その中でも有名なのが慶応3年(1867年)9月3日、馬之助が鳥取藩士の武信次郎と共に新両替町(銀座)の料亭に入った際に、先客だった天道藩の槍術指南役・中川俊造と剣術師範・伊藤慎蔵と喧嘩になって2人を斬殺した事件である。
天道藩の中川と伊藤は酔っていた。
馬之助が2人の傍らに席を求めたが、店の者が別席へ案内しようと気を利かせたところ、伊藤が罵言を吐いて立ち上がり様に斬りつけてきたのである。
馬之助はやむなく抜いて伊藤は首筋から頬にかけて斬られて即死、中島は腹から背への突傷が致命傷となって死んだ。
この事件は一大センセーションを巻き起こし、馬之助の名を天下に轟かせた。
馬之助は形ばかりの牢屋入りで事なきを得たが、馬之助と一緒だった鳥取藩士の武信次郎は後に天道藩士たちに殺されている。
この事件を聞いた師・桃井は「またやったか」と言ったという。
更にこの同じ年の暮れ、稽古納めを終えた馬之助ら士学館の一行が歩いていると、巡回中の新微組と出くわした。
新微組の隊士たちが「道の片側に寄れ」と偉そうにしたため、馬之助がそれに怒り、お互いが刀に手をかけた時に師・桃井が身分を明かし「ここにいるのは士学館の弟子だ」と言うと、新微組の隊士たちは謝罪して喧嘩は収まったという。
明治維新後
明治維新が起こり、馬之助は廃藩置県後に東京府日本橋の蠣殻町でアルコール製造に携わっていたが、明治12年(1879年)馬之助は士学館の同門である梶川義正、逸見宗助と共に新設された警視庁の撃剣世話掛に登用された。
廃刀令が発布されたが、仇を持っている者は常に剣を持つ必要があると考えていた馬之助は、刀を持つことを許されていた警察官になったという。
馬之助は逸見宗助らと共に警視庁武術を取り仕切り「警視流撃剣形・居合形」を制定した。
明治16年(1883年)9月、警視庁在職のまま宮内省済寧館御用掛に採用され、同年11月の向ヶ岡弥生社撃剣大会で逸見宗助に勝利した。
明治20年(1887年)伏見宮邸で催された天覧兜割り試合に馬之助、逸見宗助、榊原鍵吉の3人が選ばれて出場した。馬之助と逸見は残念ながら失敗したが、榊原は名刀同田貫を用いて成功し、天下に「最後の剣客」として名を知らしめた。
榊原鍵吉は「幕末の剣聖」と謳われた男谷精一郎の直心影流の継承者で、講武所剣術指南役や遊撃隊頭取を務めた剣客であった。
明治23年(1890年)4月1日、馬之助は腸チフスにより死去、享年60であった。
おわりに
「桃井の小天狗」という異名があった上田馬之助の強さを、士学館と警視庁の後輩で大日本武徳会範士の三橋鑑一郎は「上田馬之助先生の稽古はウマいの何の、それはとても口では言えぬ。私などはボロクソに言われたものだが、どうしても敵わなかったのだから仕方が無い」と語っている。
ちなみに昔プロレスラーで上田馬之助という人物がいたが、剣豪・上田馬之助から命名した訳では無いそうだ。
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