時は幕末、京都守護職を務める会津藩のお預かりとして治安維持を担当し、京都洛中を闊歩していた新撰組(しんせんぐみ)。
尊皇攘夷を決行するため、倒幕を訴えるなど過激派不逞浪士の取り締まりに尽力していた新撰組ですが、その局中には敵対勢力の間者(かんじゃ。スパイ)が潜伏していることも少なくなかったようです。
そこで今回は、長州藩の間者として新撰組(※)に潜り込んでいた四人組のエピソードを紹介したいと思います。
(※)当初の名称は壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ)ですが、話の便宜上、ここでは「新撰組」で統一。
四人組のプロフィール
今回の主人公である四人組は、五十音順に以下の通り。
荒木田左馬之助(あらきだ さまのすけ)
天保10年(1839年)ごろ生まれ、入隊時24~25歳。出身・出自は不明。隊内でも洒落者として知られていたようですが、具体的なエピソードなどはなく、通り一遍な「今どきのお洒落」程度だったのでしょう。越後三郎(えちご さぶろう)
天保10年(1839)生まれ、入隊時25歳。一説には越後国糸魚川(現:新潟県糸魚川市)出身で本名は松山良造(まつやま りょうぞう)、越後三郎は偽名(越後出身の三男だから?)の可能性も。松井竜三郎(まつい りゅうざぶろう)
生年不詳、おそらく他の三名と概ね同年代(20代半ば~後半)か。御蔵伊勢武(みくら いせたけ。伊勢太とも)
天保7年(1836年)ごろ生まれ。入隊時27~28歳
彼らは文久3年(1863年)6月ごろ新撰組に入隊、情報収集を担当する国事探偵方(こくじたんていがた)を務めたと言います。
「我々は長州の者と交流があり、彼らの内情を知っているし、また情報も引き出しやすい立場である」
「然るに、長州は近年増長ぎみであり、遠からず暴挙に及ばぬとも限らぬ」
「そこで我々が連中の内情を逐一報告することで叛乱の兆候を未然に摘みとるお役に立てるものと存ずる」
つまり「長州藩士と親しいから間者かと疑われるかも知れないが、その立場を活かして逆に彼らの内情を探りたい」ということで、局長の近藤勇(こんどう いさみ)と、同じく芹沢鴨(せりざわ かも)はこれを承諾しました。
ただし、近藤ら「試衛館派」は彼らを信用していなかった一方で、芹沢は同じ尊皇攘夷の同志として快く受け入れたようで、自然と彼らは芹沢率いる「水戸派」と親しくなっていきます。
キツネとタヌキの化かし合い
さて、無事に新撰組へ入隊できた四人組は、国事探偵方として不逞浪士(主に長州勢力)の情報収集に努めているフリをしながら差し障りのない情報を引き出したフリをしつつ、代わりに新撰組当局の情報を長州藩に漏洩していました。
もちろん、新撰組当局としても最初から間者だと判っているため、相手に知られても差し障りのない範囲で情報を洩らしてやり(もちろん、当人たちは必死で探り出したつもり)……という、つまりキツネとタヌキの化かし合いに終始していたようです。
とは言うものの、彼らを警戒している近藤ら試衛館派に対して芹沢たち水戸派は尊皇攘夷の急先鋒である長州藩にシンパシーを感じているようで、入ってくる情報よりも出ていく情報の方が多く(どっちもしょうもない内容とは言え)、好ましい状況ではありません。
「まったく、芹沢たちは連中に気を許し過ぎだ……」
「いや、むしろ彼らに迎合したいようにさえ思える。今の内に手を打たねば、遠からず乗っ取られてしまうやも知れぬ」
「それもそうだが、まずは芹沢一派を何とかせねば……」
当時、新撰組内では「試衛館派」と「水戸派」が権力抗争に明け暮れており、どっちが主導権を握るかが至上命題となっていた節があります。
「そんなに仲が悪いなら、別行動すればいいのに……」と思わなくもありませんが、恐らく会津藩としては複数の組織を管理するコストなど、財政的な事情からそれを許さなかったのかも知れません。
ともあれ、試衛館派と水戸派の内部抗争を制したのは近藤たち試衛館派。文久3年(1863年)9月15日に水戸派のブレーンである三人目の局長・新見錦(にいみ にしき)が切腹させられ、翌9月16日には芹沢鴨とその片腕・平山五郎(ひらやまごろう)が暗殺され、もう片腕である平間重助(ひらま じゅうすけ)が逃亡したことにより、水戸派はほぼ壊滅しました。
「芹沢先生を暗殺した犯人は長州藩士に違いない……この恨みは必ず雪(すす)ぎ、先生の志を継ごうではないか!」
いったいどの口が言うのか、近藤勇は芹沢の葬儀を執り行うと、残党の粛清に乗り出します。
試衛館派の暗殺を謀るが……
「おい、まずいな」
水戸派の壊滅により、四人組は新選組隊内に居場所をなくしていきました。
「そろそろ潮時か?」
「しかし、無断で隊を脱すれば切腹だぞ」
「さりとて、このまま手を拱(こまね)いている訳にも……よし!」
そこで四人組は9月25日、長州藩士と結託して試衛館派の要人暗殺を企みます。ターゲットとして狙われたのは永倉新八(ながくら しんぱち。二番隊組長)と、中村金吾(なかむら きんご)。
「いいか、抜かるなよ……?」
二人を料亭に誘い、別室に控えている長州藩士らが包囲する段取りとなっていましたが、永倉らは虎口を脱し、暗殺計画はあえなく失敗。
「どうする!?」
「うろたえるな!下手に動くと却って怪しまれる。ここは何食わぬ顔で屯所へ戻り、あくまで永倉の一件とは無関係を装うんだ」
しかし、今回の暗殺未遂に四人組が関与していたことは既に読まれており、翌朝、荒木田左馬之助と御倉伊勢武の両名は髪結い中に斬殺され、残る二人は間一髪で脱出。そのまま行方をくらましたのでした。
彼らは「芹沢鴨を暗殺した犯人」にでっち上げられたと言いますが、そんなこと隊内では誰も信じていなかったでしょうし、また四人組にしても、敵からどう言われようが、これまたどうでもよかったことでしょう。
エピローグ
こうしておよそ3ヶ月にわたる彼らの新撰組生活は終わりを告げたのですが、松井竜三郎がそのまま消息を絶った一方で、越後三郎は長州藩の同志と合流。
その後、池田屋事件(元治元・1864年6月5日)や禁門の変(同年7月19日)を潜り抜けて長州へと逃げ帰り、幕府による長州征伐(慶応2・1866年6月7日~8月30日)でも奮戦、生きて明治維新を見届けました。
明治時代に入ると海軍に奉職し、明治8年(1875年)に退官後は(懐かしい?)京都へ戻って余生を送り、明治25年(1892年)に54歳で亡くなったそうです。
情報を制する者が戦いを制する。新撰組しかり長州藩しかり、その重要性を実感していればこそ必死で腹の探り合いが繰り広げられたのであり、彼ら四人組もまた、日本の未来を信じて暗闘の最前線で身体を張っていたのでした。
※参考文献:
相川司『新選組隊士録』新紀元社、2011年12月
鈴木亨ら『新選組 全隊士録』講談社、2003年11月
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