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ソ連に行くはずが…?数奇な運命を辿り南極への道を作った船「宗谷」

南極は、「地球最後の秘境」とも言われる。

地図や地球儀ではしばしば目にするため、それほど異世界という認識はないかもしれないが、その過酷な環境、到達やその場での生存の難しさは宇宙にも匹敵するかもしれない。

そんな南極へ日本人の観測隊を載せて到達したのは貨物船として生まれた「宗谷」(そうや)という船だった。

この記事では、数奇な運命を辿り、幾度も死地を乗り越え、「軌跡の船」という呼び名をも与えられた船、「宗谷」について解説する。

「宗谷」とは?

宗谷

第2次観測出発直前の宗谷

「宗谷」は、1936年に起工された。

当初は「商船」として建造されたが、その後次々と活躍の場を変えたことにより、「特務艦」、「特別輸送艦」、「引揚船」、「灯台補給船」、そして「砕氷船(大型巡視船)」へと艦種を変更したという艦歴を持つ。

愛称は「奇跡の船」「福音の使者」などがある。これも後述する宗谷の活躍の歴史を見ればその理由がわかるだろう。

ソビエト向け商船のはずが海軍の運送艦に?

宗谷

砕氷艦のイメージ。宗谷ではない

前述したとおり「宗谷」はもともと貨物船として建造された。それも日本国内で運用される想定ではなく当時のソビエト連邦から発注されたもので、北洋を航海するため「砕氷型貨物船」として発注された艦だった。ちなみに、ソ連艦としての名前は「ボロチャエベツ (Волочаевец)」という。

しかし第二次世界大戦を控えた当時の情勢から、竣工後、商船「地領丸」となった。

当初こそ帝国海軍が直接買い上げたわけではなく民間の貨物船扱いであったが、1939年には海軍へ売却された。海軍側も、宗谷(地領丸)の持つ砕氷能力や耐氷能力、そして宗谷が搭載していた最新鋭のソナーには関心を寄せていた。1940年、帝国海軍に売却された地領丸は、艦名を「宗谷」と改め「特務艦」、類別は「雑用運送艦(砕氷型)」とされた。

以降、宗谷は輸送任務の傍ら南洋にも進出し、サイパンやトラック諸島での測量任務を行っていた。

日米が開戦してからもソロモン諸島やショートランド島などの測量任務を行っていたが、米軍の双発飛行艇、双発飛行機に襲撃を受けても損害はなかったという。

空襲と雷撃をくぐり抜け生き残った「宗谷」

宗谷

日本海軍の「天下分け目」となったミッドウェー海戦にも宗谷は参加している。

このとき、占領予定であったミッドウェー諸島の測量が宗谷の目的であったが、ここでも9機のB-17から空襲を受けた。絶対絶命と思われたが宗谷はまたも無傷だった。

この戦い以降、悪化の一途をたどる太平洋戦争の戦況の中で宗谷は奮闘を続けた。宗谷は空襲だけではなく、1943年1月のブカ島クイーンカロライン沖では敵潜水艦からの魚雷が命中するが、なんと不発により損害を避けた。5月、カビエンの港では空襲を受け至近弾で計器の故障があったが、横須賀に無事帰投し修理を受けた。

1944年のトラック島空襲では、搭載した高角砲と機銃をふるって奮戦、対空戦闘で9名が戦死したが艦自体の被害は軽微であった。1945年の輸送任務中にもアメリカ潜水艦からの雷撃を受けるが、この魚雷は宗谷の下を通過した。

こうして、幾度も空襲と雷撃を受けながら、8月24日、最後の石炭輸送任務を終え終戦を迎えたのである。

輸送艦から「引揚船」、そして「灯台補給船」に

宗谷

終戦後、宗谷は「宗谷丸」と名前を改め、「引揚船」の任務が与えられた。すなわち日本国外にいた日本人を本土へ帰投させるための復員船というわけである。

なお戦争を生き延び、のちに引揚船となった帝国海軍の艦はいくつかあるが引揚任務中に無念にも沈没してしまった艦もある。(駆逐艦「神風」など)しかし、宗谷は1948年11月の引揚任務完了までに、19,000名以上の引揚者を無事送還した。

引揚任務が終わった後は、「灯台補給船」となった。当初海上保安庁は宗谷を水路測量船として利用する予定であったが、装備条件などをGHQの基準に当てはめた結果、灯台補給の任務が与えられたのである。このとき、名前を再度「宗谷」に改められている。

1950年から、宗谷は日本中を駆け巡り補給を行った。このときの宗谷の呼び名には「燈台の白姫」や「海のサンタクロース」などがある。

「耐氷構造」と「船運の強さ」から、次の任務は「南極」へ!

宗谷

太平洋戦争終了後、日本は国際的な立場において数多くの制約を受けた。スポーツや国際会議などの場ももちろんであったが、それは新たな土地への観測についてもそうであった。

しかし1955年、とうとう日本はある新天地への観測を行うこととなる。それが「南極」だった。

南極大陸への移動には当然それに適した艦が必要であった。通常の艦船では南極周辺の海にある分厚い氷を砕いて進むことができないが、そこで選定されたのがほかでもない「宗谷」であった。宗谷はもとより砕氷能力のある貨物船として建造されただけのことはあり、南極観測には適していた。しかし理由はそれだけではなく、「船運の強さ」もあるという。

たしかに、大戦中に幾度となく米軍航空機の空襲や潜水艦からの雷撃を受けながら大規模な損害を出さず、また魚雷に至っては命中したにも関わらず不発というのは「船運が強い」というほかない。南極という未曾有の異世界へ挑むには、装備や知識も重要であるが、「」の要素も重要だったのだろう。

宗谷は機関部のほか、砕氷能力の要である船首部分、レーダーや見張所の親切といった大規模換装のほか、戦後日本の艦船の中で初となるヘリコプターの搭載を遂げ、南極へと旅立ったのだった。

こうして宗谷に乗り込む第一次南極地域観測隊は、1957年1月24日に接岸、29日には南極へ上陸を果たし昭和基地を開設したのである。

現在の「宗谷」

宗谷

船の科学館に展示される宗谷

宗谷は第一次南極地域観測隊から合計6回の南極航海を行った。その後も宗谷は巡視船として活躍し続けた。

1960年代には遠洋漁業船の救助活動にも度々出動しており、また北方漁船の天敵である流氷にも持ち前の砕氷能力を駆使して立ち向かい続けた。漁民たちの間で「福音の使者」「北洋の守り神」などという呼び名が宗谷に向けられたのも頷ける活躍ぶりである。また、南極へ赴く宗谷の姿をひと目見ようと、船内見学には行列ができるなど宗谷は人々に愛された。

そして1978年、宗谷はとうとう退役し長い「戦い」を終えることとなった。竣工からおよそ40年、ときに荷物を運び、人を運び、ときに砲を積んで敵と戦い、そしてときにその体躯で氷を砕き、危難にある人々を救うという、文字通り八面六臂の活躍を示した宗谷は退役後の1979年より保存船としてその一部が展示されている。

品川区にある屋外展示場では「宗谷」の姿を見ることができるほか、南極の氷を使った体験学習なども楽しめる。

おわりに

日本の艦船のエピソードは数多くある。その多くが大戦中のものであるが、そうした華々しい活躍をした艦船も無念にも沈没の憂き目を見たり、戦後の復興資材として解体されてしまっているものも多い。

「宗谷」は、戦争では決して主役ではなかったし強大な敵を打ち倒したわけでもない。しかしながら日本が多くの船を失った大戦を生き延び、戦後にも様々な役割を与えられ、そして日本史上初となる南極への公式上陸を果たすなど実に多様な活躍を見せた艦であることは、この記事で述べたとおりだ。

40年にわたる長い艦歴の中で、ときに戦場を駆け回り、ときに人々や物資を運び、そしてときに凍て付く極地を押し進んだ宗谷は今、穏やかな東京の海上で静かに見学者を待っている。

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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