松平不昧とは
江戸時代後期、出雲松江藩の藩主でありながら茶人として名高い大名、松平不昧(まついだいら ふまい)という人物がいた。
17歳で父から松江藩を引き継いだが、財政状況は破綻しており、もう借金すら出来ない有様であった。
家老・朝日丹波を片腕として藩政改革に乗り出した結果、4万両にも及ぶ蓄えを生じたことで「松江藩中興の祖」と仰がれたが、実際に改革を主導したのは朝日丹波である。
藩の財政に余裕が生じたことで不昧は高額な名物茶器を収集し、500とも800とも言われる名物茶器を入手し「日本の名物残らず集め候」と豪語した。
茶人として様々な流派を参考にして独自の茶風「不昧流・雲州流」を生み出し、この不昧流は現在にも伝わっている。
今回は茶人大名・松平不昧の光と影について解説する。
出自と茶道
松平不昧は、寛延4年(1751年)出雲国松江藩6代藩主・松平宗衍の次男として生まれる。
幼名は「鶴太郎」、諱は「治郷」で号が「不昧(ふまい)」であるが、ここでは一般的に知られる「不昧」と記させていただく。
不昧は幼少期、頭は良かったが大変ないたずらっ子だったため、養育掛の家老たちがお茶を習わせたとも言われている。
この時代、身分の高い人たちは茶道を習うことは必須の教養であったが、それが功を奏したようでいたずらは少し改善したという。
武芸にも堪能で、松江藩の御流儀である不伝流居合を極め、不伝流に新たな工夫を加えたほどの腕前で文武両道であった。
好角家としても知られ、伝説の力士・雷電為右衛門を士分に取り立て召し抱えたことでも知られている。
幼少の頃は雲州茶道頭・正井道有(遠州流)に付いて学び、京都から千家流・谷口民之丞を呼んで点前を見せ、17歳の頃には三斉流・荒井一掌に習った。
明和4年(1767年)17歳の時に父の隠居により家督を継ぎ、10代将軍・徳川家治から偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより「治郷」と名乗った。
藩主となった翌年の18歳で、将軍家の茶道師範である石州流伊佐派の伊佐幸啄に入門した。
不昧が石州流を学んだ理由は、不昧の松平家が徳川家康直系の子孫藩主であり、伊佐幸啄が幕府の数寄屋頭として天下を風靡していたためである。
不昧は熱心に茶道を研究し、石州流が最も千利休の侘び茶を受け継いでいることを理解した。
一方で幼い頃より儒学を学び、19歳の時には禅も志し、麻布の天真寺の和尚を師と仰ぎ「茶禅一昧」の境地を開いていった。
不昧という号はこの天真寺の和尚から与えられたものである。
御立派(おたては)の改革
父・宗衍が藩主になった翌年、「享保の大飢饉」が起こり、その後も長らく不作の年が続いていた。
そして17歳で藩主となった不昧は、松江藩の財政に驚愕する。
なんともう借金が出来ない有様で、周囲からは「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。
不昧は朝日丹波(あさひしげやす)を家老とし藩政改革に乗り出した。
これは倹約と年貢の増微を柱とするもので、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿・朝鮮人参・椿・ハゼノキなどの商品価値の高い特産品を栽培することで、財政再建を試みたのである。
しかし、その反面「六公四民」から「七公三民」という厳しい税率を課した。
他にも借財の棒引き、藩札の使用禁止、村役人などの特権行使の停止、役所の統廃合といった強硬な施策を推し進めた。
これらの改革は「御立派(おたては)の改革」と呼ばれ、空になっていた藩の金蔵になんと4万両もの金が蓄えられたという。
不昧は「松江藩中興の祖」と仰がれるようになったが、実際には家老・朝日丹波の力が大きかった。
光と影
茶道では石州流に傾倒し「贅言(むだごと)」という書物を書き、道具自慢に走りがちな茶道を批判していた。
当時は千利休の精神に立ち返り「釜一つあればよい」と説いていたが、藩の財政に余裕が生じたことから不昧の姿勢は大きく変わっていった。
24歳の時に500両で「伯庵茶碗」という名器を購入したのを皮切りに、名物茶器の収集にのめり込むようになっていったのである。
1,500両もする天下の名器「油屋肩衝」や、300~2,000両もする茶器を数多く購入するなど、散財するようになっていった。
貸し本屋だった商人が不昧の散財を目の当たりにして、茶道具屋へ商売替えをしたという逸話まで残っている。
名器の数は500とも800とも言われ、不昧は「日本の名物残らず集め候」と豪語したという。
その反面、松江塗を奨励し、名工・小林如泥を重用するなど工芸の発展にも力を尽くした。
しかし、この名物茶器の散財によって再び松江藩の財政は悪化していくのである。
一説には財政を再建して裕福になったことで幕府から警戒されることを恐れて、あえて道楽者を演じていたとも言われている。
不昧流
不昧流(ふまいりゅう)は、不昧こと松平治郷が興した武家茶道の一派である。
不昧の時代は「雲州流」として知られていたが、現在では不昧流あるいは石州不昧派と称している。
三つの流派の茶道を学んだ不昧は独自の茶風に達し、享和2年(1802年)に茶事改正の達しを出している。
不昧が集めた名物茶器は「雲州名物」と呼ばれた。
不昧はそれまで単に「名物」と呼ばれていた茶道具の名器を更に細かく「宝物」「大名物」「中興名物」と分類し、18巻にも及ぶ著書「古今名物類従」にまとめ上げた。
不昧の無駄のない質素と思われる点前は江戸で評判となり、諸侯や富裕層の町人に師と仰がれ人気が高かったという。
現存する不昧の茶室
不昧が作った茶室・「菅田庵」は、国の重要文化財として現存しており、縄手の「明々庵」も現存している。
茶の湯につきものの和菓子についても、松江城下では銘品と呼ばれるものが数多く生まれている。
このため松江地方では煎茶道が発達し、今でもお猪口状の湯呑みで飲む風習が残っている。
不昧の収集した名物茶器と銘品・銘菓は「不昧公御好み」として現在にも伝えられ、松江市が今もって文化の町として評される礎となっている。
おわりに
文化3年(1806年)、松平不昧は家督を嫡男・斉恒に譲って隠居し、文政元年(1818年)に68歳で死去した。
江戸時代を代表する茶人の一人であり、現在私たちが国宝や重要文化財となった名物茶器を数多く鑑賞出来るのは、不昧のおかげだとも言われている。
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