現在日本全国どこにでもあるお好み焼き屋。
地域によっても形態は様々であり、「関西風お好み焼き」「広島風お好み焼き」「べた焼き」「遠州焼き」など、色々な様式や具材のお好み焼きが存在している。
もちろんお好み焼きにもルーツがあり、一番古い記録では千利休が好んだ「麩の焼き : ふのやき」がある。ただしこれはあくまで「粉物」としての記録であり、現在のお好み焼きからはかけ離れたものとされている。
お好み焼きのルーツ
現在の形態にもっとも近いルーツは、大正~昭和初期に東京中心に流行した「どんどん焼き」である。
「どんどん焼き」は主に屋台や縁日などで食べられていて、大正7年の読売新聞朝刊には「どんどん焼き」についての記事が掲載された。しかし当時の屋台のお品書きでは既に「お好み焼き」という名称も使われ始めていたようである。
作家の池波正太郎は、少年時代に浅草で「どんどん焼き」をたくさん食べたことを多くの著作に残している。
そしていよいよ本題であるが、東京で屋台を中心に流行していた「お好み焼き屋」が、銀座の裏通りで店舗を構えだしたのである。
そしてその銀座裏のお好み焼き屋は、「飲食を口実にして男女に逢瀬の場を提供する場所」であり、昭和6~7頃になんと風俗上の理由で摘発されている。
現在で言う、出会い喫茶や相席居酒屋のような店だったのである。
民俗学者・池田彌三郎は、著作「私の食物誌」に、この摘発エピソードを残している。
また、食文化史研究家の岡田哲は「お好み焼きは、当時の東京の花街において座敷にしつらえた鉄板で客が自分の好みに焼く風流な遊戯料理として誕生した」と語っていることから、当時のお好み焼きは「男女の逢引」と密接したイメージの軽食だったようである。
男女の出会いを目的としたお好み焼き屋は摘発によって廃れたが、その後、通常のお好み焼き屋は人気が広がり、昭和12年頃に大阪初のお好み焼き屋とされる「以登屋」が北新地近くにオープン。昭和13年には浅草に現存する最古のお好み焼き店である「風流お好み焼き 染太郎」がオープンしている。
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