武蔵は遅刻をしなかった?
通説や映画・TVドラマなどでは、武蔵が小次郎を苛立たせるためにわざと遅刻をして、小次郎の冷静さを失わせるための戦略を使ったとされてきた。
約束時間の辰の刻(午前8時)を過ぎても武蔵は逗留先でのんびり寝て、迎えの者が呼びに来ても意に介さず悠然と食事を摂り「程なく参ると伝えておけ」と言って最後まで朝食を食べ続けた。
用意された小舟に乗り込んだ頃には日はすっかり上り、約束の時間を2時間余りも遅れて巌流島に到着した。
小次郎が苛立ち冷静さを欠いたことで、武蔵は戦いを有利に進めることができたというのが通説である。
しかし実は、武蔵は遅刻をしていなかったという説がある。
武蔵の弟子が建立した小倉碑文には「両雄同時に相会す」と記されているのである。
小倉碑文は、巌流島の決闘から50年もたたずに建てられたもので、実際の決闘を生で見た人たちの証言が刻まれている。
つまり、とても信憑性が高いものなのである。
今までの説を検証すると、この決闘は私的な決闘となり、正式な立会人もいないことになる。
小次郎が2時間も遅刻した武蔵を待っているとはとても考えづらい。
遅刻をすれば「武蔵は恐れて逃げた」と判断して小次郎は帰るであろう。
そしてもし武蔵が父・無二斎のために決闘を申し込んだならば、尚更遅刻をする訳がないのである。
武蔵の遅刻がフィクションならば、小次郎が苛立って刀の鞘を投げ、武蔵が「小次郎敗れたり!」と叫んだ有名なやり取りも、創作ということになる。
本当の巌流島の決闘は、武蔵と小次郎が定刻にお互いの技量を出し尽くした名勝負であった可能性が高い。
武蔵は櫂を削った木刀で戦っていない?
通説では、武蔵は巌流島に渡る小舟の上で、舟の櫂を削って太刀の代わりにして戦ったとされている。
小次郎の「物干し竿」と言われた長刀に対する秘策とされているが、こちらも小倉碑文にこう記されている。
「小次郎(岩流)は真剣での勝負を望んだ」
とあり、これに対して武蔵は
「汝(小次郎)は自刃(真剣)をもってその妙を尽くせ、我(武蔵)は木戟(木刀)で技を表すこと約束する」
とある。
武蔵は思いつきで舟の櫂を削って木刀にしたのではなく、自分の手に合う木刀を事前に準備し、それを使って戦ったのである。
では、準備した木刀とは一体どのようなものであったのだろうか?
武蔵は晩年に熊本の八代藩主・松井寄之から、「巌流島の決闘の時にどんな刀を使ったのか?」と問われ、小次郎との決闘で使った木刀と同じものを作って献上したという。
その時の木刀は、現在も松井家の宝物を置いてある松井文庫に現存されている。
樫の木を丁寧に削った長さ126,7cmで少し反りがあるものである。
一般的な木刀は100cm程なので、それよりも少し長い木刀であった。
しかし小次郎は真剣だったのに、なぜ武蔵は木刀を使ったのだろうか?実は武蔵は巌流島決闘の前の決闘でも木刀を好んで使っていた。
一つは真剣よりも木刀の方が軽くて扱いやすく、素早く動かすことができたからだという。
もう一つの理由として、実は武蔵は小次郎を死なせたくはなかったというのだ。
決闘はどちらが強いかを決めるためで、何も相手を殺す必要はない。
巌流島の決闘の時、実は武蔵は小次郎にまだ息があることを確認してから島を去ったという。
小次郎はすぐには死んでいなかった
小次郎は負けて死んだことは間違いないのだが、実は武蔵の一撃で即死した訳ではなかった。
決闘後、小次郎は息を吹き返したが、密かに巌流島に渡っていた武蔵の4人の弟子たちが小次郎を撲殺してしまったというのである。
これは「沼田家記」という信憑性の高い資料の記録なので間違いはないとされていて、武蔵の弟子たちが小次郎を殺したのは武蔵の指示ではなかった。
小次郎が生きていて都合の悪い人物といえば、武蔵の父・新免無二斎である。
武蔵が父の代わりに戦ったということは、万が一武蔵が負けたら次は無二斎が小次郎と戦わなければならなかった。
小次郎を武蔵の弟子たちに殺させたのは、無二斎の指示によるものだった。
実はこの後、小次郎の弟子たちもその真相を知り、武蔵を殺そうと画策、武蔵は門司城代の沼田に助けを求めたという。
そして、護衛付きで無二斎のいる豊後国へ送り届けられているのである。
実は小次郎にはこんなエピソードがある。
小次郎は、巌流島に向かう小舟で船頭から「どこか別の場所につけるのでお逃げなさい。例えあなたが神技を振るったとしても武蔵には多くの助太刀がいるので、生きて帰ることはできないでしょう」と言われたという。
それを聞いても小次郎は「決闘の約束をした以上、例え死ぬことになろうとも約束は果たさねばならない」と言って、すべての所持金をその船頭に与え、「恐らく私は死ぬだろう。そうしたら私の魂を祀ってくれ、お前の思いやりに感動した」と船頭に言った。
小次郎の覚悟に感動した船頭は、涙を流しながら巌流島まで送り届けたという。
※このエピソードの真偽は定かではないが、当時の人々は非業の死を遂げた小次郎を悼み、船島を「巌流島」と言うようになったのである。
五輪書の謎
13歳から29歳まで60回にも及ぶ決闘にすべて勝利した武蔵。この巌流島の決闘の後、武蔵は武者修行を終えた。
その後も武蔵は勝負を挑まれれば試合を行ない、生涯に渡って勝ち続けたとされている。
(※ただし、宝蔵院流槍術・高田又兵衛と引き分けたとか、神道夢想流杖術・夢想権之助に負けたという逸話もあり、真偽のほどは定かではない)
武蔵はこれまでの勝負を振り返って兵法を極めるために鍛錬を重ね、二刀流の「二天一流」を磨き上げ、兵法の集大成である「五輪書」を書き残した。
しかし五輪書には巌流島の決闘のことを書かなかった。武蔵は師でもある父・無二斎を尊敬し、また好勝負をした小次郎のことも尊敬していた。
父・無二斎の手に者によって撲殺された小次郎のことは結果的に不名誉な勝利となってしまったために、五輪書には書き残さなかったのではないかと言われている。
おわりに
伝説の一騎打ち「巌流島の決闘」の真相は、実に意外なものであった。
勝者である宮本武蔵が何も書き残さなかったために決闘の詳細は正確には伝わらず、多くの伝説や創作が作られることになったのである。
関連記事 : 巌流島の決闘の真相 前編 「武蔵は佐々木小次郎と戦っていなかった?」
すげえ~俺たち今まで映画やTVドラマに躍らせれていたんですね、ためになりました。
うわあ~来た!草の実堂さん、ありがとうございました。私の前にコメント書いた人が踊らされた通りですわ!
ええええ佐々木小次郎は誰なの70過ぎの爺さんなの?巌流島の決闘は日本一有名な決闘じゃん。
武蔵が戦った相手は小次郎という名の佐々木小次郎ではなく、岩流の強かった小次郎という若者だったの?
やべえ、私たちはTV等に踊らされていた。真実を知る機会をくれた草の実堂さんとrapportsさんに感謝だわ!
なんか、逆にショックだわ。舟の櫂を削ってなかった、小次郎を殺したのは父・新免無二斎に頼まれた武蔵の弟子。
うわぁ~ショックだわ!吉川英治び印象が強過ぎ、こんな創作を今まで信じていたけど、逆に真実が分かってありがとうと言いたいですわ。
これからも読み続けます。ためになりました。さすがは草の実堂さん、アッパレ!