奈良時代

奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた

奈良県奈良市にある東大寺といえば 大仏さま が有名である。

大仏殿に入ると大仏さまの高さ約18メートル、蓮華座(座っている台)の直径18メートルというスケールに、ただただ圧倒される。

大仏さまをよく見ると、顔と胴の色が違うことに気がつく。それは、顔と胴のできあがった年代が違うためで、大仏さまは何度も作り直されてきたのだ。

そこで、大仏さまのたどってこられた苦難の歴史について調べてみた。

大仏さまの本名と作り方

奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた

※盧舎那仏像(大仏、国宝)東側より wikiより

まず、大仏さまはどういう仏さまなのか。正式には 盧舎那仏(るしゃなぶつ)といい、華厳経というお経のなかで「光り輝く宇宙そのもの」と説かれている。

次に大仏さまの作り方である。

1 実物大に合わせて木で骨組みを作り、竹や縄で大仏の形をした籠のようなものを作る。
2 籠に粘土を塗って、大仏の塑像を作る。これが原型になる。
3 原型の上に別の粘土を塗り、乾いてから剥がす。原型の凹型を写した外形ができあがる。
4 原型の厚さを銅の分だけ削り、外形を元の位置に戻すと、隙間ができている。
5 外形を土で覆うなどして固定し、溶かした銅を隙間に流し込む。
6 冷えてから外形を外し、細部を整える。
7 いくつものパーツに分けて、これを繰り返す。

紫香楽宮にてさっそく崩壊する

奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた

※聖武天皇

聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都して、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺建立の詔を発した。

しかし、なぜか紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸して、天平17年(745)に盧舎那仏建立の詔を発して遷都した。

甲賀寺に大仏さまを建立しようとしたが、大地震が発生。何日も余震が続き、おそらく塑像までは造られていたであろう大仏さまが、寺とともに崩壊したと考えられる。

恐れおののいた人々は紫香楽宮から逃げ出し、聖武天皇はその数日後に平城京に遷都した。

奈良時代に開眼

聖武天皇はあきらめなかった。

天平17年(745)のうちに東大寺の前身の金鐘寺で大仏建立を再開し、聖武天皇自ら大仏の土座の土を運搬した。

翌年、原型となる塑造が完成。その次の年には大仏の鋳造が始まった。

大仏さまは宇宙に光り輝く存在なので、聖武天皇は黄金を必要としていた。そのため、のちに初代東大寺別当となる良弁に、黄金産出を祈願させていた。そのかいあってか、天平21年(749)に陸奥にて日本で初めて金が産出された。

大仏さまは金メッキが施され、ピカピカのお姿で天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養会を迎えた。

天平当時の大仏さまが描かれた最古の絵画は、平安時代後期の『信貴山縁起絵巻』(国宝)の中の「尼公の巻」である。

現在のダイナミックなお顔とは違い、面長なお顔に描かれている。

奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた

※尼公が東大寺大仏前で祈り、まどろみ、信貴山へ向かうまでを異時同図法で表す。創建時の大仏と大仏殿の貴重な画像。

平安時代に地震で頭が落下する

建立から約50年後の、延暦24年(805)には大仏さまが傾いてきたため、背後に土山を築いた。

天長6年(829)には、亀裂が4メートル以上、像高が20数センチ沈み、面相がやや西に傾いていたとの記録がある。

そんな折、斉衡2年(855)に大地震が発生した。大仏の首筋の亀裂が広がり、頭部がゆっくりと傾き落ちたという。

仏頭の損傷はひどく、新造もやむなしと考えられた。しかし、轆轤(ろくろ)の技術を駆使して落ちた頭部を持ち上げ、首部に鎔鋳するという案が採用された。

貞観3年(861)に、無事に大仏修理落慶法要が行なわれ、天平の開眼法要に劣らぬ盛大な祝賀行事が行なわれた。

南都焼討により焼失する

※平重衡

治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討により、大仏さまは蓮華座と腰部の一部を残してほとんど焼失してしまう。

翌年、後白河法皇が東大寺再興の詔を発し、齢61の俊乗房重源を東大寺造営大勧進に任じた。勧進とは、寄付を募ることである。

※俊乗房重源上人坐像のレプリカ wikiより

文治元年(1185)に大仏落慶開眼法要が行なわれ、建久6年(1195)に大仏殿の落慶法要が行なわれた。

重源は宋へ留学していた経験と人脈を生かし、当時最先端の技術を駆使してほかの建物や仏像も再建した。

現在の南大門、開山堂、法華堂(三月堂)の礼堂部分は、重源が再建したものである。

東大寺大仏殿の戦いにより破損する

戦国時代の永禄10年(1567)、松永久秀三好三人衆が東大寺で戦い、大仏殿が炎上。大仏さまも破損する。

翌年、正親町天皇が大仏殿再建の綸旨を発するが、作業が進まず、岩掛城主の山田道安が銅板で大仏さまの頭部を造る。その後、螺髪・右手の鋳造、身体や右膝の鋳掛け、大仏殿の仮堂の建立などが行なわれた。

しかし仮堂は暴風雨で倒壊してしまい、それ以降大仏さまは100年以上雨ざらしになってしまった。

江戸時代に修理、現在に至る

万治3年(1660)に、公慶が13歳で東大寺大喜院に入寺した。公慶は大雨の中、雨ざらしの大仏さまにお参りして涙を流し、再興を決意した。

貞享元年(1684)、36歳になった公慶は江戸に行き、大仏殿再興とそのための諸国勧進を幕府に訴願し、許可される。すぐに奈良の町で勧進を始め、全国に赴いて勧進を続けた。

元禄3年(1690)に頭部が完成、銅板だった頭部が青銅製になった。元禄4年(1691)、大仏さまの修復完成。翌年、大仏開眼供養会が行なわれた。

公慶は天平の創建当時の大仏殿を再建したかったが、木材の入手が難しく、幕府から財源の援助を得ても再現することはできなかった。

元文4年(1739)に大仏さまの光背が完成し、現在のお姿となる。

大仏さまの苦難の歴史は、大仏さまへの人々の篤い信仰の歴史でもあった。

 

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