5代目 風魔小太郎とは
風魔小太郎(ふうまこたろう)とは、戦国最強と言われた忍者集団「風魔(ふうま)」の首領の名であり、代々襲名される由緒ある名称と言われている。
風魔一族・風魔忍者の中でも最強と謳われたのが、北条氏綱・氏康・氏政・氏直と小田原の北条家4代に渡って仕えたとされる「5代目の風魔小太郎」である。
多くの作品や物語に登場する風魔小太郎のモチーフとなっている存在であり、風魔小太郎と言えば5代目のことだと思っていても間違いはない。
忍者ゆえ風魔一族や風魔小太郎に関する正式な書物(記録)はほとんどなく、「北条五代記」に記されているもの、風魔に関連する「見分集」の逸話、「鎌倉管領九代記」に登場する風魔小太郎が、その姿を描く希少な資料となっている。
今回は最強と謳われた忍者・5代目風魔小太郎の伝説について前編と後編にわたって解説する。
風魔一族の始まり
風魔一族は、戦国時代に相模の国や関東を治めた後北条家に仕えた忍者の一族である。
「風魔一党」や「乱波(らっぱ)」と呼ばれる忍者集団で、その首領は代々「風魔小太郎」を名乗ったという。
下克上で有名な北条早雲が、風魔一族の乗馬技術を高く評価して配下に迎え入れたのが始まりとされていて、風魔一族は以降は後北条家に仕えることとなる。
この点が、様々な大名たちから依頼を受けて各地で活動していた伊賀・甲賀忍者とは違う部分である。
風魔は「ふうま・かざま」とも言い、「風摩、風广・風間」とも書いた。
どんなに厳しい場所でも忍び入るので「風間」と名付けられたという説もある。(※この説の真偽は定かではない)
風魔一族が住んでいたのは、武蔵国や足柄山地と言われている。
普段は「風間」と名乗って北条家のために戦闘訓練や忍者修行などを行ない、盗賊・野盗・山賊もしていた。
乱波は「他家へ忍び入り、山賊、夜討ち、強盗して物盗ること上手なり。才智あり、計略巡らすこと凡慮に及ぼす」と言われた。
約100年に渡って関東に君臨した小田原北条家を影で支えた関東乱波が「風魔一族」であり、合戦に関してはあらかじめ敵の領国に忍び入り城地を混乱させ、得意の夜討ちで敵陣を攪乱させたという。
風魔小太郎の配下には、約200人の乱波がいて、4組に50人ずつ配置して行動したという。風魔200人だけで「1万石相当の割り当て兵力と同等」と言われたほどである。
風魔忍者は敵陣に忍び入り、敵将を生け捕りにして、敵の馬の綱を切ってその馬に乗って夜討ちをかけ、方々に放火し、四方八方に紛れ込んで勝ち鬨を上げるので、敵は散々動揺したという。
北条家が発した書状には度々「風間出羽守」という人物が登場し、警備や諜報の任務にあたっていたことが伺われる。
「風間出羽守」という人物が風魔小太郎だという証拠は見つかっていないのだが、何代目かの風魔小太郎であると考えられている。
風魔小太郎の風貌
北条家の遺臣である三浦浄心が著した「北条五代記」に記されている5代目の風魔小太郎が、伝説や物語に伝わる風魔小太郎であるとされている。
その風貌は身長が2m16cmの筋骨隆々の大男で、身体のいたる所にむら瘤があり、眼は吊り上がり、髭を伸ばした口は広く裂けて4本の牙が生え、その頭は福禄寿のように長く、鼻は高く突き出し、高く声を出せば5km以上届き、低く出せば波のように響き渡り不気味であったという。
これは人間離れした風貌を世に伝え、本当の風魔小太郎の姿を隠すための嘘ではないかという説もある。
仮にこの風貌が本当だった場合は、堀や壁の乗り越えはお手のもので、鋼のように鍛え抜かれた長身から繰り出す拳は、まさに肉体そのものが最強の武器だったと言える。
その声は風魔の十八番である「奇襲戦法の要」にも成り得たのではないかとされ、闇の中の低い声は敵の恐怖心を煽り、逆に高い声は味方を鼓舞し、敵には実際よりも多くの兵と戦っているかのように錯覚させることができただろう。
後編では、風魔が実際に戦闘でどのように活躍したのかについて解説する。
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