徳川斉昭とは
徳川斉昭(とくがわなりあき)とは、NHK大河ドラマ「青天を衝け」で俳優・竹中直人さんが演じた水戸藩第9代藩主である。
江戸幕府最後の将軍となる徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の実父に当たる。
藩主争いで自分の擁立に尽力した能力のある人材を身分が低くても重用し、先祖である徳川光圀(水戸黄門)の水戸学を色濃く藩政に活かした。
「尊王攘夷(そんのうじょうい)」思想の生みの親であり、強烈な個性で幕政にも口を出し「烈公」と呼ばれた。
そして天皇は幕府ではなく、斉昭に重大な実現を託した。(戊午の密勅 : ぼごのみっちょく)
激動の幕末動乱期、斉昭の元に朝廷からの勅諚が届く。思い悩んだ斉昭の決断とはどのようなものだったのか?
9代藩主となる
徳川斉昭は、寛政12年(1800年)水戸藩第7代藩主・徳川治紀の三男として生まれた。
本来、三男である斉昭は水戸藩主となる可能性は低かったが、幼少の頃より「水戸学」を会沢正志斎から学んでいた。
父・治紀は斉昭の才能を認め、本来ならば養子に出すところを手元に置いた。
第8代藩主・斉脩が継嗣を決めないまま病となり、水戸藩では大名昇進を画策する中山信守を中心とした門閥派が、第11代将軍・家斉の第20子・恒之丞を養子に迎える動きがあった。
それに対抗して、水戸藩の学者や下級武士層は三男・斉昭を推した。斉昭派40名余りが無断で江戸に上って陳情する騒ぎとなったが、兄・斉脩の死後ほどなく遺書が見つかった。
その遺書には「斉昭を次期藩主とするように」と書いてあったため、9代藩主となった斉昭は水戸藩内の門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに務めた。
藤田東湖、戸田忠太夫、会沢正志斎、武田耕雲斎ら、斉昭擁立に加わった比較的下士層の藩士を重用し、藩政改革を実施したのである。
烈公
斉昭は藩校・弘道館を建設し、農村救済に稗倉を設置、さらに「追鳥狩」と称する大規模な軍事訓練を実施し、国民皆兵路線を唱えて西洋の近代兵器の国産化を推進した。
水戸藩だけではなく、蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを幕府に提言し、斉昭が提唱した「尊王攘夷」思想の影響力は幕府のみならず全国に及んだ。
この時期、日本近海に外国船が現れ、外国からの脅威に晒されながらも異国船を打ち払わない幕府に対して、斉昭は意見を提言し、人々から「烈公(れっこう)」と呼ばれるようになった。
しかし寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とするなど、仏教抑圧及び神道重視の政策を行ったことで仏教弾圧とされてしまう。
弘化元年(1844年)ついに幕府から罪に問われ、幕命によって家督を嫡男・慶篤(よしあつ)に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられた。
黒船来航
その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握るが、斉昭を支持する下士層の復権運動によって弘化3年(1846年)斉昭は謹慎を解除され、嘉永2年(1849年)には藩政の関与が許された。
嘉永6年(1853年)幕政に関わる重大事件が起きる。ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航して幕府に開国を迫ったのである。(黒船来航)
この一大事に老中首座・阿部正弘は斉昭を頼り、斉昭は「海防参与」として幕政に関わった。
水戸学の立場から斉昭は強硬な「攘夷論」を主張し、江戸防備のために大砲74門を鋳造し、弾薬と共に洋式軍艦「旭日丸」も幕府に献上した。
強硬に「開国」に反対し、異人と国交を開くなどもってのほかと「尊王攘夷」を唱え、黒船の軍事力に屈し開国を進めようとする幕閣と激しく対立した。
この時の13代将軍・家定は生来病弱で内気な性格で、男子の誕生も期待できず、「黒船来航」の一大事に対応することはとても出来なかった。
幕閣や譜代大名、有力な外様大名はこの危機に対応できる次期将軍の擁立に動いた。
斉昭の七男で文武両道の誉れ高い一橋慶喜を推す一橋派(老中・阿部正弘、越前藩主・松平春嶽、薩摩藩主・島津斉彬ら)と、将軍家の血統に近い紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派(彦根藩主・井伊直弼ら)と対立した。
安政2年(1855年)斉昭は軍制改革参与に任じられるが、同年に起きた「安政の大地震」で側近の藤田東湖と戸田忠太夫が死去してしまう。
安政4年(1857年)には斉昭を頼った老中・阿部正弘が急死し、堀田正睦が老中首座となると、斉昭は開国論に猛反対し、開国を推進する彦根藩主・井伊直弼らと対立する。
安政5年(1858年)井伊直弼が大老に就任すると、孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を独断で調印し、将軍継嗣問題も徳川慶福を第14代将軍と決めてしまったのである。
条約調印
井伊直弼の行動に怒った斉昭は、同年6月24日に長男・慶篤、甥である尾張藩主・徳川慶勝、越前藩主・松平春嶽らと共に、江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問した。
「尊王攘夷」を唱える斉昭は、孝明天皇の勅許を得ずに勝手に条約を調印した井伊直弼を許すことは出来なかったのだ。
しかし逆に江戸城無断登城を咎められ、7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されてしまったのである。
戊午の密勅
安政5年(1858年)孝明天皇は幕府に勅諚を下したが、その返信が無い状況が1か月に渡って続いた。
効果が見込めないことから、勅諚は諸藩に直接下すことになった。
最有力候補は薩摩藩であったが、その1か月前に藩主・島津斉彬が急死したばかりであったため、水戸藩及び長州藩に下されることで朝議が決した。
同年8月7日深夜、水戸藩主宛ての勅諚が京都の水戸藩留守居役助役・幸吉知明に手渡された。
この勅諚は、日米修好通商条約締結後の幕府による朝廷への度重なる非礼を戒め、謹慎中の斉昭を中心に幕政改革を行うことを目的としていた。
御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令である。
この2つの内容を、水戸藩から諸藩に廻達せよという副書であった。
これは「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれる。
つまり、朝廷から水戸藩へ直接勅書が渡され、幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ密勅の写しを回送するようにと指示を出されたのだ。
これが届いた斉昭は思い悩んだ。
それは幕府をないがしろにし、威信を失墜させることになってしまうからだ。
斉昭には
『御三家である水戸藩が幕府をないがしろにして諸藩に写しを送るようなことをしていいのか?』という想いと、『今まで朝廷を敬い尊王を掲げて幕政に口を出し、全国諸藩の尊王の志士らを奮い立たせて来た自分が、朝廷の意向をないがしろに出来るのか?』という想いがあったことだろう。
この2つのうちどちらを選ぶのが得策なのか・・・斉昭は究極の選択を迫られたのである。
勅諚の扱いに思い悩んだ斉昭は、水戸学の師である会沢正志斎に相談した。
会沢は「勅諚の主旨を幕府が穏便に受け取ればいいが、そうでなければ私にもどのような異変が起きるか想像が出来ない」と、慎重に水戸藩に留め置くべきだと答えた。
これを受けた斉昭は悩んだ末に、勅諚を藩に留めるべきだと決断する。
藩主・慶篤にも、幕府を通り越して諸藩に伝達することを断念するように勧めたのである。
水戸藩への影響
勅諚を水戸藩内に留めたことで、水戸藩内は真っ二つに割れてしまった。
斉昭の判断に従い幕府を刺激しないとする会沢正志斎を中心にした「鎮派」と、孝明天皇の勅諚通りにしようとする武田耕雲斎を中心とした「激派」に分かれて対立したのである。
激派の過激な藩士たちは幕府への敵対心を示して次々と江戸に向かい、激派に刺激された領民たちもそれに追随してしまう。
謹慎中の斉昭は、激派の怒りを何とか収めようと自らの思いを諭書にした。
「我々の処分が解けず悲嘆に耐えかねて思い詰めて起こした行動ではなかろうか?幕府への忠誠により私は深く謹慎している。この心情を汲み取って早く争いを鎮めよ」
しかし激派の水戸藩士らは「斉昭が蟄居・謹慎の身であることから、このような手紙を書いて送っても、斉昭の本心は違うのではないか」と勝手に忖度してしまったのである。
安政の大獄
幕府(大老・井伊直弼)は、水戸藩に対し勅諚の諸藩への回送取り止めを命じた上に、勅諚そのものを朝廷に返納することを求めた。
しかし、激派の藩士らを抑え切れる状況ではなかった。
すると井伊直弼は安政6年(1859年)「密勅は孝明天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀だ」とし、水戸藩の家老・安嶋帯刀は切腹、奥祐筆・茅野伊予之介と京都留守居役・鵜飼吉左衛門を斬首、勘定奉行・鮎沢伊太夫は遠島、その他多くの攘夷派の者たちが弾圧、刑を受けた。
そして斉昭は水戸での永蟄居、藩主・慶篤は差控という厳しい処分となった。
世にいう「安政の大獄」である。
これで斉昭の政治生命は永久に絶たれることになってしまった。
その後も幕府は水戸藩に勅諚の返納を求めた。
水戸藩内は返納論が主流となっていたが、激派は抵抗し続け、このまま返納しなかったのである。
桜田門外の変
激派の一部過激派の藩士たちは脱藩して江戸に向かい、安政7年(1860年)3月3日、登城中の大老・井伊直弼を江戸城の桜田門で襲撃し、暗殺してしまった。
世にいう「桜田門外の変」である。
この混乱により、勅諚返納問題はうやむやとなってしまった。
その日の深夜、斉昭は井伊直弼暗殺の報を受け「将軍家の信頼厚い宰相を殺害するとは不届き至極!言語道断だ!」と怒ったという。
おわりに
徳川斉昭が火をつけた「尊王攘夷」という大きなうねりは、斉昭の想像や思惑をはるかに超えてしまった。
「桜田門外の変」から5か月後の万延元年(1860年)8月15日、斉昭は水戸藩の将来を案じながら激動の生涯を閉じる。
享年61であった。
その後、水戸藩の過激な尊王攘夷激派は「天狗党」を結成し、一橋慶喜を頼って攘夷実行のために挙兵したが、なんとその一橋慶喜率いる幕府軍によって捕縛され悲しい最期を迎えるのであった。
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