家康が夢見た外交政策
静岡県伊東市、この地にある戦国時代の英雄のゆかりのものが展示されている。
それは日本初の洋式帆船「サン・ブエナ・ヴェンツーラ号」の10分の1の模型である。
今からおよそ400年前、この船を造り太平洋を行き来する貿易を夢見た男が、最終的な戦国時代の覇者・徳川家康(とくがわいえやす)である。
ヨーロッパの国々がアジアに押し寄せた大航海時代に、家康は世界をまたにかけた国際外交を推し進めた。
それは江戸幕府を盤石にするための一大事業でもあった。
この当時、日本国内には外国人商人と共にキリスト教の宣教師たちも数多くいた。
家康は彼らが各地で布教することを許し、キリスト教が広がることも黙認していた。
更に、イギリス人のウィリアム・アダムスを外交顧問(ブレーン)として抜擢し、このネットワークを通じて最新の世界情勢まで手に入れていた。
ところが家康は突如「禁教令」を発布し、キリスト教の教会を破壊して宣教師やキリシタンたちを国外追放にしたのである。
世界に開かれた国を目指していた家康に、一体何が起きたのか?
江戸幕府を開いた当初、家康はどのような国の形を思い描いていたのか?
今回は家康の外交政策の真相について前編と後編にわたって解説する。
当時の世界の外交
16世紀、世界は大航海時代の到来により大きなうねりの中にあった。
ヨーロッパの人々は、莫大な富と市場を求めて海外に進出した。
特にスペインとポルトガルが二大強国として世界侵略を始め、両国は競うように勢力を拡大し、アジアでぶつかり合った。
両国は1529年、争いを避けるためにモルッカ諸島の東側東経144度30分のところに勝手に南北の線を引き、その線の東側がスペイン、西側がポルトガルと決まった。
日本はその線の間に位置していたため、「スペインの領有権なのか?ポルトガルの領有権なのか?」両国で争うことになってしまう。
その昔、マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と呼んだ日本。
ヨーロッパ人たちが特に目をつけたのは、山陰地方にある石見銀山を始めとする「銀」であった。
この頃、銀は世界通貨の役割を果たしていた。
しかも日本の銀はとても良質で、その産出量はなんと世界の3分の1を誇っていた。
当時の日本は戦国大名たちが各地で熾烈な戦いを繰り広げていたが、そこに登場したのがヨーロッパからもたらされた鉄砲であった。
鉄砲は日本の戦に革命をもたらし、戦国大名たちは先を争って鉄砲を手に入れた。
その鉄砲を最初に日本に持ち込んだのがポルトガル人だった。
そして、もう一つ日本に大きな影響を与えたのがキリスト教である。
宣教師たちによって各地に布教され、その中心となったのがイエズス会であった。
彼らはローマ教皇の精鋭部隊で、全世界にキリスト教を広めることを使命とし、手段を選ばなかったという。
イエズス会はスペイン・ポルトガルの先兵として世界各地に送り込まれたのである。
彼らは先住民にキリスト教を布教し、時には侵略の手助けをしていた。
しかし16世紀後半になると、両国を脅かすイギリスとオランダという国が台頭してきた。
新旧二つの勢力は宗教的にも対立しており、スペイン・ポルトガルはカトリックで、イギリスとオランダはプロテスタントだった。
ヨーロッパでは、この宗教対立で戦争が起きたほどである。
1568年、長くスペインの支配下にあったオランダで独立戦争がおきた。
1588年には無敵艦隊と言われたスペイン艦隊をイギリスが撃破し、世界は新たな時代を迎えようとしていた。
その頃、日本では戦乱に明け暮れた戦国時代がようやく終わろうとしていた。
天下人として君臨していた豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に死去、その後に天下の実権を握ったのが徳川家康である。
家康の外交政策
家康は激動する世界を相手に、独自の外交政策を打ち出していった。
東アジアでは、秀吉が起こした「文禄・慶長の役」の後始末が大きな課題であった。
明と朝鮮が日本と国交を断絶していたため、家康は両国との貿易を復活させるため、関係修復に努めたのである。
さらに南蛮貿易にも積極的に関わろうとした。
当時は九州の諸大名らが南蛮貿易を独占しており、家康は独自の貿易を求めてフィリピンのマニラに使者を送っている。
家康は、スペイン領のフィリピン・マニラ、太平洋を渡ったスペイン領のメキシコ、江戸湾の入口にある浦賀とを結ぶ、壮大なスペインとの太平洋貿易ルートを開拓しようとしていたのだ。
家康はマニラのスペイン総督に
「マニラのスペイン人は、毎年江戸湾浦賀に来航して貿易をすれば良い。日本人もメキシコに赴いて通商をしたい。
その航海用の帆船を造るために、造船技師や職人を派遣して欲しい」
といった内容の親書を送っている。
家康は関ヶ原の戦いに勝利した10日後に、毛利氏から石見銀山を取り上げた。
そしてその豊富な銀を背景に、積極的な外交政策を推し進めていった。
家康は東南アジアにも目を向け、タイ・カンボジア・ベトナムなどと朱印船貿易も開始した。
これらは家康の「全方位外交」と呼ばれる政策であった。
重要な人物
関ヶ原の戦いからおよそ5か月前、豊後国の黒島に一隻の西洋帆船が漂着した。
家康は、その船に乗っていたイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスを大坂城に呼び出し、直々に尋問したのである。
家康はアダムスから「イギリスがスペインやポルトガルと敵対関係にあること」「アダムスたちの宗教・プロテスタントについて」「船での航海など様々なこと」などを聞き出した。
実は家康は一貫して「宗教抜きで貿易を活性化したい」と考えていた。
しかしスペイン国王からは「貿易は良いが、キリスト教の布教を許して欲しい」と言われていた。
それに対して家康は「日本は神の国であり仏の国でもあるので、宗教抜きに貿易をして欲しい」と返答していたのである。
そこにアダムスが現れて「イギリスにはそういう宗教観は全くなく、我々は日本に貿易をしにやって来た。日本にとってwinwinのシチュエーションで、お互いが豊かになるような商売をしたい」と家康に伝えたのである。
アダムスの話は、家康にとって非常に魅力的な話であった。
慶長10年(1605年)家康の命を受けたアダムスが伊東で造船した帆船「サン・ブエナ・ヴェンツーラ号」が完成した。
アダムスはこの船で畿内から江戸湾まで航海し、沿岸に沿って測量も行った。
この船を造った功により、アダムスは三浦郡に250石の領地を与えられた上に旗本に取り立てられ「三浦按針(みうらあんじん)」と名乗るようになった。
そして家康の外交政策のブレーンとなったのである。
新たなパートナー
当時の南蛮貿易で、鉄砲などの武器・弾薬以外で大きなウエートを占めていたのは中国産の生糸であった。
生糸は高級な絹織物の原料として珍重されていたが、生糸の貿易はポルトガルとイエズス会にほぼ独占されており、価格が高騰することも多かった。
家康は新しい貿易相手が加われば「彼らとの間で自由競争となり生糸の価格が低く抑えられる。そうなれば日本は潤うことができる」と考えていた。
そこで家康が目をつけたのが、ポルトガルと敵対するオランダであった。
オランダは1602年に東インド会社を設立し、貿易で世界を席捲しようと各地に船団を送っていた。アジアにも拠点を作り、ポルトガルに代わってアジア貿易を拡大していたのである。
家康はオランダ人と同じプロテスタントのアダムスを仲介役に起用し、オランダとの交渉にあたらせた。
慶長14年(1609年)7月、駿府城にオランダ使節団を招くことになった。
ところがそこに邪魔が入る、それはイエズス会であった。
イエズス会の宣教師は家康に
「オランダ人は反逆者であり海賊でもある。日本にとって重要な貿易を破壊するものである」
と進言した。
しかし家康はイエズス会の訴えを退けてオランダに朱印状を授け、オランダ船が日本に渡航してくる際には「日本中どこの港に着岸しても良い」とした。
オランダはさっそく平戸に商館を設立し、その倉庫には中国産の生糸・鉛・胡椒・象牙などが保管されたという。
家康はこうして日本を世界に開いて行ったのである。
後編では開国政策を行っていた家康が、どのようにして心変わりしていったのかについて解説する。
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