元久2年(1205年)6月22日。鎌倉武士の鑑であった畠山重忠(はたけやま しげただ)が、無実の罪によって命を落としてしまいました。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では中川大志さんの熱演する重忠が、北条義時(演:小栗旬)と一騎討ちを演じます。
最後はヤンキー漫画さながらの殴り合いとなり、死闘を制した重忠。しかし義時に止めを刺さず、鎌倉の未来を託して去って行く姿が多くの視聴者を魅了したことでしょう。
惜しまれながら退場していった畠山重忠。その嫡男・畠山重保(演:杉田雷麟)ともども討ち取られてしまいましたが、重忠の子孫は後世に続いています。
そこで今回は幕末の系図集『系図纂要』より、畠山重忠の祖先と子孫を紹介。彼らはどこから来て、どこまで行ったのでしょうか。
Before重忠・秩父一族の系譜
まずは重忠以前の祖先について、駆け足でたどってみましょう。
【畠山氏略系図】
村岡忠頼―秩父将常―秩父武基―秩父武綱―秩父重綱―秩父重弘―畠山重能―畠山重忠
※直系のみ。
村岡忠頼(むらおか ただより)は坂東平氏の祖として知られる平良文(たいらの よしふみ)の次男。これ以前にもたどれますが、『系図纂要』ではこの忠頼が初代となります。
将常が秩父又六郎と称した辺りから武蔵国秩父に土着、その後代々にわたり勢力を拡大していきました。
重忠が劇中で言及していた武蔵国留守所惣検校職(~るすどころそうけんぎょうしき)は、忠頼から数えて5代目の秩父重綱が補任されています。
武蔵国司の遥任(ようにん。現地にいないで任務に当たること)に際して、その留守を監督する役職からやがて武蔵国内の実権(武士団の動員)を握るようになりました。
だから重忠はお飾りに過ぎない武蔵守(国司)よりも、統治権の源泉である惣検校職にこだわったのです。
そんな秩父一族と源氏の結びつきは古く、重綱の父・秩父武綱は源義家(みなもとの よしいえ。八幡太郎)の奥州征伐(後三年の役。永保3・1083~寛治元・1087年)に従軍した忠功によって源氏の白旗を賜っています。
また畠山重能(畠山庄司。この代から畠山を称する)は久寿2年(1155年)に源義平(よしひら。悪源太、頼朝の異母長兄)と組み、家督を争っていた叔父の秩父重隆(ちちぶ しげたか)を攻め滅ぼしました。
この大蔵合戦に勝利した畠山家は秩父一族の本拠地・大蔵を治めるようになりますが、重忠が惣検校職になる(秩父一族の家督を継承=棟梁となる)のはもう少し先の話になります。
畠山重忠の息子3名
と、ここまでが前置き。ここからは重忠の息子たちを紹介していきましょう。
『系図纂要』によると重忠の息子は3名。
- 畠山重保
- 畠山重秀(しげひで。小二郎)
- 證性(しょうせい。畠山重慶)
【畠山重保】
『吾妻鏡』では父と同じ元久2年(1205年)6月22日に討たれていますが、『系図纂要』では元久元年(1204年)11月4日に由比ヶ浜(由井濱)で討たれたことに。
討たれた場所は『吾妻鏡』と同じですが、どういうことか……これは漢字で「六月廿二日」と縦書きされていた筆跡があまりに汚く、それを写した者が「十一月四日」と勘違いしたのかも知れません。
【畠山重秀】
父と共に戦い、その後を追って自害した重秀。当年23歳(寿永2・1183年生まれ)。側室の子なので重保よりも先に生まれながら、元服は後回しで通称は小二郎に。
後世に続く畠山一族は彼の子孫。武蔵国榛沢郡藤田郷(現:埼玉県寄居町)に所領を持っていたので、藤田とも称します。
【證性・畠山重慶】
重忠の末子で、『吾妻鏡』では建保元年(1213年。建暦3年)に謀叛の疑いで長沼宗政(演:清水伸)に討たれました。
しかし『系図纂要』では文永2年(1265年)4月25日に77歳で亡くなった(文治5・1189年生まれ)とあり、相当な長寿を保ったそうです。
この食い違いはどういうことでしょうか。見ると「本名重慶」と書き添えてあり、建保元年(1213年)に討たれたのは影武者だった(本物は證性と改名して生き延びた)のかも知れませんね。
他にも、重忠の息子には中山四郎重政(なかやま しろうしげまさ)や畠山円耀(えんよう。僧侶)などが伝わるものの、『系図纂要』では以上3名となります。
江戸時代まで続いた?重忠の子孫たち
それでは、畠山重秀の系統からその子孫たちをたどっていきましょう。
【畠山行安】
読みは「ぎょうあん」なのか「ゆきやす」なのか。『系図纂要』では「三郎大夫 討死一谷」とあるのみです。
一谷と聞くと一ノ谷の合戦(寿永3・1184年2月7日)を連想しますが、重忠でさえ当時21歳ですから、その孫が参戦しているとは考えられません。
もしかしたら、同合戦で討死した藤田行康(ふじた ゆきやす。武蔵七党・猪俣政行の子)と混同されている可能性があります。
【畠山能邦】
こちらは「三郎」のみ、その生涯はほとんど謎。諱は高祖父の畠山重能から一文字もらったのでしょうか。
藤田行康の子・藤田能国(よしくに)であった場合、承久の乱(承久3・1221年)で北条泰時(演:坂口健太郎)に従って活躍。戦後は後鳥羽上皇(演:尾上松也)からの院宣を読み上げる文博士(ふみはかせ。教養高い者)として知られます。
【藤田宗致】
読みは「むねゆき」等と考えられます(流石に「むねむね」はないでしょう)。別名を重康(しげやす)とも。
藤田長門守(ふじた ながとのかみ)と称し、永享の頃に関東管領の上杉(うえすぎ)氏に仕えたとされます。
え?父親(先代)が承久の乱で活躍して、子供が永享年間(1429~1441年)に生きていたって、200年以上も離れているのですが……。
ここは系図を無理やりつないだのでしょうか。更に宗致以降は、次の代まで時代が飛んで系図が不明瞭となっています。
【欠落期間】
「正龍寺文書(しょうりゅうじもんじょ)」によると、重康から康邦までの歴代は以下の通り。
重康―泰氏―氏行―行景―国行―国村―康邦※正龍寺(埼玉県大里郡寄居町)は藤田氏の菩提寺で、藤田氏の初代・猪俣政行(いのまた まさゆき。藤田行康の父)が箱根権現を祀ったことに始まります。
【藤田康邦】
幼名は虎寿丸(とらじゅまる)。元服して藤田邦房(くにふさ)と改名、後に主君の北条氏康(ほうじょう うじやす)から康の字をもらってさらに康邦と改名しました。
右衛門尉(右衛門佐とも)などの名乗りを許されて活躍、弘治元年(1555年)9月13日に世を去ります。
【藤田重氏】
康邦の養子(娘婿)で、元は北条氏康の三男(四男、五男とも)・北条氏邦(うじくに)。またの名を藤田邦憲(くにのり。猪俣邦憲)とも。
※北条氏邦と藤田邦憲が別人(邦憲は氏邦に仕える宿老)との説もあり、どうも諸史料を混同している節がみられます。
幼名は養父から受け継いだ?虎寿丸(または千代丸)。人呼んで秩父新太郎(ちちぶ しんたろう)、重の字と共に畠山一族の末裔たる誇りが感じられます。
安房守を称し、外交に軍事に活躍した重氏。しかし天正18年(1590年)に北条氏が羽柴秀吉(はしば ひでよし)に降伏すると加賀の前田家に預けられ、出家して宗春(そうしゅん)と号しました。
そして慶長2年(1597年)8月8日に世を去ります。
【藤田氏定】
北条氏政(うじまさ)の五男で、重氏(北条氏邦)の婿養子となります。後に直定(なおさだ。長兄・北条氏直より直の字を拝領)、養父と同じく秩父新太郎を名乗りました。
(戦国大名としての)北条滅亡後、長兄に従って高野山で隠居。天正19年(1591年)に赦免されると出家して良安(りょうあん)と号します。
やがてほとぼりが冷めたと思ったか、文禄4年(1595年)ごろに還俗。その後の動向は不明です。
【藤田氏時】
コメントは「秩父内記」のみ。紀州徳川家に仕えたと言いますが、詳しいことは未詳。
養子の藤田氏成(うじしげ)、孫の藤田氏賢(うじかた)までその家名を確認できます。
終わりに
【畠山氏略系図】
桓武天皇―葛原親王―平高望―平忠文―村岡忠頼―秩父将常―秩父武基―秩父武綱―秩父重綱―秩父重弘―畠山重能―畠山重忠―畠山重秀―畠山行安―畠山能邦…(約200年途絶)…藤田宗致(重康)―藤田泰氏―藤田氏行―藤田国行―藤田国村―藤田康邦―藤田邦憲―藤田氏定―藤田氏時=藤田氏成―藤田氏賢……※直系のみ。『系図纂要』をベースに、一部補足(諸説あり)。
※はっきり「藤田」と称した記述のある宗致以前の者については、とりあえず「畠山」としています。
以上、畠山重忠の祖先と子孫について『系図纂要』を中心にたどってきました。重秀より先はどうも猪俣党(藤田氏)が混同し、更には北条氏へとスライドしているようです。
信憑性については今一つ(恐らく血統的には断絶している)ながら、「武士の鑑」畠山重忠の後裔を称することで武蔵国を治める誇りを受け継ごうとする心意気が感じられます。
また個々の人物についても興味関心が湧いてきたので、また改めて調べ直したいところです。
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 黒田基樹 『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月
- 清水亮『シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻 畠山重忠』戎光祥出版、2012年6月
- 下山治久 編『後北条氏家臣団 人名事典』東京堂出版、2006年9月
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