信玄 vs 信長、元亀3年(1573年)武田信玄が京を目指し、織田信長と徳川家康領に対する進軍(攻撃)を開始した、通称「西上作戦」。
今回は、この信玄の上洛「西上作戦」を、経済力の観点から紐解き解説する。
信玄動く
元亀2年(1572年)、信玄はそれまで信長と友好な関係を築いていたのにもかかわらず、信長の比叡山焼き討ちを「天魔ノ変化」と非難し、信長に対する考え方を変えた。
その翌年の元亀3年(1573年)将軍・足利義昭の「信長追討令」の呼びかけに応じる形で、信玄は本格的に信長と同盟関係を結んでいた家康の領地がある三河や遠江に侵攻を開始した。
家康の支城を次々と落とした武田軍は、勢いに乗って2万5,000の兵で「三方ヶ原の戦い」で、家康を完膚なきまで叩き潰し、信長に迫ったのである。
この信玄の西上作戦について甲陽軍鑑には「天下を取って都に旗を立て、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政を正しく執行せんと信玄の望む是なり」と書かれている。
当然、信玄は上洛の意志があったのだが、その道中で信玄は病死。武田軍は途中で領国の甲斐に引き返してしまい「幻の西上作戦」とまで呼ばれた。
これに一番胸を撫でおろしたのが信長であろう。
しかし信玄は病に侵されながらも、どうしてこの上洛を決行したのか?
その理由は、信玄の「西上作戦」の5年前に遡る。
永禄11年(1568年)、信長は室町幕府第15代将軍・足利義昭の将軍就任に尽力した。
その褒美として将軍から何が欲しいと聞かれた信長は「堺・大津・草津が欲しい」と答えたのである。
信長の欲しいもの
将軍・義昭は、地位や国(領土)を欲しがらない信長を訝ったが、そこには信長のしたたかな計画があった。
堺は自主独立の日本一の貿易都市で活気と金が満ち溢れ、しかも日本一の鉄砲の製造工業都市でもあった。
この当時の物資の輸送は日本海側の港から陸路を通り、琵琶湖を船で渡って坂本や大津などで降ろされてから京都に届き、京都から全国に流通するという流れだった。
草津は、東海道と東山道(後の中山道)が合流する東国への陸路の交通の要所であった。
そのため、大津と草津という物流都市から得られる利はとても大きかった。
日本一の貿易港・堺と、日本海側から入ってくる流通の拠点の大津、陸路の要所の草津、この3つの場所を抑えた信長は、他の戦国大名への「経済封鎖」も可能となる。
この当時、太平洋側から大量の荷物を運ぶのはとても困難だった。その理由で信長は将軍・義昭に「堺・大津・草津が欲しい」と言ったのである。
信長は地位や領国ではなく、金や物流の柱となる都市を選び、他国の大名への「経済封鎖」まで考えていたのである。
信玄の狙い
一方、信長に貿易と流通の拠点を抑えられた信玄は、海を手に入れるため、信長に討たれて弱体化した今川領の駿河に狙いを定めた。
しかし、今川義元の娘を正室に迎えている長男・義信が猛反発したのである。
こうして武田家内で親今川派との派閥抗争が生まれ、信玄はなんと自分の長男を謀反に関わったとして廃嫡、幽閉し、死に追い込んでしまったのである。
その後、信玄は駿河に侵攻し念願の海を手に入れ、更に甲斐国中の金を集めて大金を捻出し領土拡大に動き出そうとしたが、実際には武田家の財政は逼迫し、武具の調達にも事欠く有様であった。
そこで信玄は甲斐の神社に対して悪銭を集めさせた。これは鉄砲玉に使う鉛の需要が増えたためである。
甲斐では、本来鉛を使う鉄砲玉の原料の代わりに銅を使って鉄砲玉に作り代えていた。しかし鉄砲の玉は何とかなっても火薬の原料・硝石は中国からの輸入に頼っていた。
しかし、中国からの貿易の拠点は信長が支配する堺であった。
信玄の前に、日本の貿易と流通の拠点を抑えた信長が立ちふさがるのであった。
高みの見物をする信長
信長は、信玄がどこまで持ちこたえられるかと高みの見物をしていたという。
信長は信玄が必要とする硝石を始め、大津と草津を抑えていたため、軍事物資を止めることが可能であったのである。
信長が行った「流通封鎖」は信玄を苦しめる要因となった。
もう甲斐から出て、信長を討つ以外どうしようもないという事態にまで追い込まれていたのかも知れない。
信玄は信長に火薬の原料である硝石を止められたことで、病に侵された身体でも無謀な「西上作戦」を決行したのではないかとされている。
だが家康を完膚なきまで叩き潰した「三方ヶ原の戦い」の後、信玄は病に倒れて病死してしまう。享年53であった。
信玄の遺言
信玄は「自分が存命であれば甲斐に侵攻しようとする国はない。三年間は自分の死を隠すように」との遺言を残した。
信玄と信長の運命、それは流通という経済力の差で決まったのかも知れない。
信玄の後を継いだ武田勝頼は「長篠の戦い」で信長・家康連合軍に大敗し、その後武田家は滅亡へと向かっていくのである。
おわりに
織田信長は祖父の代から裕福で、戦や領国経営には金の力や流通の拠点を抑えることが大事だと知っていた。
地の利も大きいが、この点で信長の方が信玄よりも1歩先を見越して経済の動きと重要さを理解していたと言えるのではないだろうか。
関連記事 : 長篠の戦いの本当の理由 「武田軍は鉛が欲しかった」
この記事へのコメントはありません。