「安寿と厨子王」(あんじゅとずしおうまる)の物語をご存じだろうか?
物語は、流刑(辺境地や島へ追放する刑罰)を受けた父を追い、安寿と厨子王の姉弟と母が、遠路を旅する事から始まる。
旅の途中に人買・山岡太夫に騙されて姉弟は母と離れ離れとなり、その後、姉弟は山椒大夫に買われて過酷な労働に就かされる。
姉・安寿は、弟・厨子王丸を山椒大夫から逃がすために命を落とすが、厨子王は逃げ延びて国分寺に助けられて成長する。
その後、一家没落の経緯を朝廷に奏上し、父の汚名をはらした厨子王は地位と領地を得た。
厨子王は「山椒大夫」と人買「山岡太夫」に復讐し、売られた先で雀追いをする盲目の母と再会し、物語は終わる。
「安寿と厨子王」物語は、決して安全とは云えなかった中世の事情を示している。
今回は、人買・山賊・海賊が横行し、危険と背中合わせだった日本の中世を浮き彫りにしていく。
人買とは
人買とは、人身売買を表す。
「安寿と厨子王」物語の人買・山岡太夫は「宿を貸す」という口実で人を騙していた。
人を騙して売る話は、鎌倉中期の仏教説話集「沙石集」にも記されている。
道連れで旅をしていたAとBの法師がある里に泊まる。
宿泊先の家主に、A法師が己の従者であると偽りB法師を売る相談をし、金額を決めてしまう。しかし、壁越しに話を盗み聞きしていたB法師は、A法師が寝たのを見計らい家主に言う。
「自分は早くに出るので先程決めた金額を今すぐ欲しい。売る予定の法師は今寝ている」と、言って代金を貰って去ってしまう。
A法師は売ろうしたB法師に逃げられ、自分がこき使われるハメとなった。
また、謡曲(能のうたい)「隅田川」では、京都に住む女性が子供の行方を探し、隅田川がある東国(関東)まで訪ね、滋賀県大津市にある「三井寺」には、駿河国(静岡県)に住む母がやって来る。
いずれも、人商人(人身売買を行う商人)に誘拐された我が子を探し回る母の話である。
「隅田川」や「三井寺」が語られる理由は、ありふれた事件だったからに違いない。
残念ながら中世は、多くの人買と買う側が存在し、「京都から関東」或いは「静岡から滋賀」等、地域を結ぶ人脈が出来ていたと考えざる得ない。
鎌倉幕府は何度も人身売買の禁止を繰り返し行い、以下の通り刑罰を実行した。
・1252年(建長4年)牛馬盗人や人身売買を三度犯すと妻子まで罪が及ぶ通達を出す
・1290年(正応3年)人身売買の禁止と違反者の面に火印を押すように命じる
再三の禁止令が出されても止まなかった背景には、人身売買に対する罪悪感欠如や己のコミュニティ外の人間に対する無関心が疑われる。
中世は、自分で身を守るしかない過酷な時代だったと云える。
鬼伝説の元になった「山賊」たち
平安中期、第66代一条天皇の頃、京の若者や姫君が行方不明になる事件が頻繁に起きた。
陰陽師として名高い安倍晴明が占いにより、大江山の鬼が仕組んだ事と言い当てる。
995年(長徳元年)、陸奥国(東北)軍総司令官を父に持つ源頼光らに討伐命令が下った。
頼光は、鬼の頭目が酒好きで「酒吞童子」と家来に呼ばれている事に目をつけ、毒酒を鬼に飲ませて首をはねた。
以上が伝説のあらましである。
では、大江山の鬼達とは何者だったのだろうか?
彼らは、山立(やまだち)・山落(やまおとし)・山盗人(やまぬすっと)と呼ばれ、山を通る旅人から銭や商品を奪う盗人、いわゆる山賊だった。
一般人が生活出来ない山に住みつき、山岳で修行する山伏も多く含まれた。
或いは、百姓が領主の横暴に対抗する逃散(荘園から去り他の土地へ逃亡する)を行う場合も山に入った。
百姓が山に入った場合、領主はそれ以上追わなかった。
当時、山は「山ノ神の領域」と考えられ、手出しが出来ない異界だったからである。
山は町村とは別世界と認識され、俗世から入り込んだ者から通行税や代わりに品物を取る行為を、山賊は当然と考えていた。
しかし、1232年(貞永元年)鎌倉幕府の法令「御成敗式目」では、「夜討ち・強盗・山賊・海賊」を重大犯罪者と見なしている。
更に1244年(寛元2年)には、山賊・海賊を捕らえる追加法が出された。
鎌倉幕府は、彼らを見逃していた訳ではない。
記録された海賊の実態とは?
山だけでなく、海も異界だった。
海ノ神が支配する空間と考えられ、海上を通行する者は捧げ物をする必要があり、それを取り立てる役目が己達だという理屈を海賊は持っていた。しかし俗世・権力者に彼らの考えは通用しない。
1216年(健保4年)鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、海賊・山賊などを含む50人余りを蝦夷が島(北海道)へ追放したという記録がある。
海賊所業を伝える記録は、1361年南北朝時代、明石海峡で東寺領(京都真言宗総本山 別名・教王護国寺)の年貢が奪われた事件や、1491年(正徳3年)興福寺(奈良市にある藤原氏の氏寺)の僧・虎松が北国へ行く途中に琵琶湖上で荷物を奪われ、同乗の商人を皆殺しにされた事件がある。虎松は事の次第を、興福寺の180世別当(寺務を統括する僧職)尋尊(じんそん)に知らせている。
室町時代、渡来した宋希璟(そう きけい)も、海賊に襲われるのではないかという恐怖を「老松堂日本行禄」で語っている。
「老松堂日本行禄」とは、朝鮮使節が見聞きした15世紀の日本滞在記である。
記録が証明する通り、海や大きな湖にも盗賊がおり、物資が行き来する河口付近も活動範囲だった。
では、商人達は山賊・海賊の危険をいかに回避していたのか?
商人達は危険にどう対処したか?
山賊や海賊、人買が盛んに行われた時代でも、商人達は品物を背負い各地を回った。
上の画像の「二人組連雀商人」のうち、一人は後ろを振りむき、警戒する様子が覗える。
彼らはどのように身を守っただろうか?
1. 集団で旅をする
2. 山道を通る旅路は、弓矢を常備した猟師を先導する
3. 海を航行する際は港で予め海賊に手数料を払い、海賊を乗せる
4. 力を持つ寺社や時の権力者に接近し、庇護を受ける
以上の対策を行っていた。
つまり、集団で旅をすれば襲われにくい上に情報を得る事も早く、仕入れや販売が能率的に出来るため、収入も上がる利点があった。
猟師を護衛兼道案内で雇うのと、運行する船に海賊を乗せて航行手数料を払うのは同じことだった。
どちらも賊の仲間であるからだ。安全を金で買い、危険を避けた訳である。
また、大きな寺社や時の権力者から庇護を受けた証拠の通行証を示せば、通行料や手数料を支払わずに済んだ。
身の安全を守って品物を売り歩く商人は結束し、やがて広い地域に力を持つ「商人司」や「商人頭」、「商人親方」に成長する者が現れる。
彼らは様々な商人を統轄し、裁判や刑罰権を持つ立場へ変わっていった。
終わりに
美濃国(岐阜県)領主になる前の斎藤道三は、油売りで諸国を巡っていた。
後に太閤と呼ばれた豊臣秀吉も針売りで、名古屋や静岡県浜松や愛知県岡崎まで赴いていた。
商人として国境を超えた彼らは、人買・山賊・海賊の実態をよく知っていた。
物流が滞れば、商人が儲からないばかりでなく、都市や農村に住む者達も貧しくなる。
天下統一を果たした豊臣秀吉は、刀狩り令と合わせ海賊船禁止令を出した。
刀狩りは百姓だけでなく、結果的に山賊や人買・海賊を行う輩からも武具を取り上げる事となった。
商人達が人買・山賊・海賊を警戒し命がげで物流を担った時代は、豊臣秀吉の登場により終わりを告げたのである。
参考図書
日本の中世3「日本の中世3「異郷を結ぶ商人と職人」
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