有名な食べ物や身近な物の中には、意外にも失敗や偶然から生まれたものもある。
今回はそのような5つの製品を紹介する。
中には諸説あるものもあるが、その場合は有力な一説を紹介することとする。
柿の種
大正時代末期、柿の種の創製者である今井與三郎は、現在の新潟県長岡市にて小さな煎餅の個人店を営んでいた。
当時の煎餅は「うるち米」を使用して作るものが主流であったが、與三郎は関西出身の青年から大阪のあられ作りを教わり、もち米を使用したあられ作りに取り組み始めた。
與三郎と妻が作っていたあられは、薄くスライスしたもちをいくつか重ね、小判型の型抜きで型をとって作っていた。
しかし1923年、與三郎の妻が誤って小判型の型抜きを踏んでしまい、型抜きの形が歪んでしまったのである。
当時の型抜きは高価で新しいものを買うことは難しかった。與三郎はなんとか元の形に戻そうとしたが出来なかった。
仕方なくその歪んだ型抜きであられ作りを続けていたのだが、その歪んだ形は新潟名産の「大河津」などの甘柿の種に似ていた。
そこで、そのあられに「柿の種」と命名したのである。
ちなみに命名のヒントをくれたのは、当時の取引先の主人であった。屋号に関しては大阪のあられ作りのきっかけをくれた青年に敬意を払い「浪花屋」と名付けた。
その後、試行錯誤し発売された「柿の種」は大ヒット商品となったのである。
白濁スープの豚骨ラーメン
1937年に発祥した「豚骨ラーメン」は、福岡県久留米市の「南京千両」というお店の店主・宮本時男が、自身の出身地で有名な長崎ちゃんぽんと当時横浜で流行していた支那そばをヒントに考えたものである。
その時に生まれたスープは、現在知られているような豚骨ラーメンのように白く濁っておらず、透明に近いものであった。
白濁スープの豚骨ラーメンが誕生したのは、1947年久留米市の屋台「三九」からであった。
ある日店主の杉野勝見は、豚骨スープを仕込んでいる時にスープの火加減を母親に任せて外出した。しかし店主が店に戻るとスープの火加減が誤って強火で煮込まれていたため、白く濁ったものになっていた。
店主は失敗したと思いスープを捨てようとしたが、試しに味見をすると今まで以上に美味しいスープが出来上がっていた。豚骨などを強火で煮込み続けたことにより、水と脂が混ざり合う乳化という現象が起き白濁したのである。
以降、このスープを使った豚骨ラーメンを提供し始めたのが白濁スープの豚骨ラーメンの始まりとされている。
その後、豚骨ラーメンは白濁スープが主流となっていった。また「豚骨ラーメン」という名前も最初から使われていたわけではなく、普通に「ラーメン」と呼ばれていた。
その後、東京進出し、関東圏では「九州ラーメン」「博多ラーメン」と呼ばれていたのが、いつの間にか「豚骨ラーメン」と呼ばれるようになっていった。
ポテトチップス
元祖ポテトチップスは1853年、アメリカニューヨーク州のサラトガスプリングズにある「ムーンズ・レイク・ハウス」というレストランの料理人である、ジョージ・クラムにより生み出されたといわれる。
お店を訪れた客が「フライドポテトが厚すぎる」とクレームを言っていたため、クラムは細くカットしたフライドポテトを提供した。
しかし客は納得せず、何度も作り直させては突き返した。そのやりとりにうんざりしたクラムは、じゃがいもをフォークで刺せない程薄くスライスして揚げたフライドポテトを提供した。
すると意外にも客はこれを気に入り絶賛したのだった。そしてこのスタイルのフライドポテトを「サラトガ・チップス」と名付けてお店のメニューに加えた。
富裕層も通う人気店の新メニューは話題となり、その後各地に広まり普及していった。
これが元祖ポテトチップスとされている。
付箋
付箋は1974年にアメリカで誕生した。
きっかけは化学メーカー「3Mカンパニー」の科学者アート・フライが、教会の聖歌隊の練習に参加していた時に起こった、ある出来事である。
フライは楽譜のページに栞の代わりに紙を挟んでいたのだが、本を開くとすぐに紙が落ちてしまった。その時にフライは、同社の科学者スペンサー・シルバーが1969年に開発した、ある接着剤を活用出来ないかとひらめいた。
その接着剤は元々強力な接着剤を目指していたのだが、実際に出来たものは紙の接着には十分だが容易に剥がせてしまう特殊で弱い接着剤であった。
シルバーはこの接着剤の活用方法を探していた。そしてフライはこの接着剤を紙の端に塗り栞にする実験を始めた。
製造上の技術的な問題など課題はあったが、研究を重ねて1980年に付箋製品「ポスト・イット」が全米で発売されたのである。
後に日本でも発売され、世界中で愛用される製品となった。
防水スプレー
1950年代初め、アメリカの化学メーカー「3Mカンパニー」は、フッ素化合物の研究に力を入れており、多くの実験が行われていた。
新人研究員のパッツィー・シャーマンは実験中に、加熱処理でゴムの粒子が液体の中で分散した状態の水溶液を同僚に渡そうとした。しかし同僚が手を滑らせて水溶液が入った瓶を床に落とし、その液を自分の靴にかけてしまったのである。
液体はこびりついており石鹸などで洗っても取れなかった。シャーマンはその液体を布に塗って乾かしたが、水をかけてみると水は布にはじかれていた。
この現象に着目したシャーマンは実験を重ね、1956年に「スコッチガード撥水・防汚スプレー」が誕生した。
今では様々なシーンや素材に合わせた防水商品がある。
終わりに
最初は失敗したと思ったものや偶然のきっかけであっても、そのことをどう捉えて考えるかにより大チャンスになることもある。
ネガティブに捉えるより、発想を変えてみることで新しい事がひらけることも多くあるのである。
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