解体新書とは
今からおよそ240年以上前の江戸時代に、現代医学の礎となる書物「解体新書(かいたいしんしょ)」が誕生した。
日本初の本格的な翻訳解剖書の著者は、医師の杉田玄白(すぎたげんぱく)・前野良沢(まえのりょうたく)・中川淳庵(なかがわじゅんあん)である。
彼らは薄弱な語学力を克服しながら3年半の歳月と11回の改稿を重ねて、安永3年(1774年)に本文4巻と序・解体図1巻、ドイツ人医師の「解剖図請」のオランダ語版「ターヘル・アナトミア」を翻訳したのである。
今回は、前人未到の困難と葛藤の連続だった「解体新書」誕生の秘密について解説する。
五臓六腑
江戸時代初期の医学の主流と言えば中国から伝来した東洋医学で、人間の内臓は五つの臓器と六つの腑(はらわた)からなる「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」という考えが説かれていた。
五臓とは肝臓・心臓・脾臓・肺・腎臓で、六腑とは胆のう・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(さんしょう)である。
三焦は本来人体には無い器官が含まれており、機能についても現代医学で明らかになっているものと違う点があるなど間違いも多々あった。
当時は人体の中身はあまり分かってはおらず、病気の原因が臓器にあることも不透明で、主に患者の症状を見て病気を判断し薬の治療を行っていたのである。
五臓六腑の概念を実際に確かめようとする医者もほとんどいなかった。
杉田玄白
杉田玄白(すぎたげんぱく)は、享保18年(1733年)に若狭国小浜藩の藩医・杉田玄甫の息子として江戸の小浜藩下屋敷で生まれた。
医家としては玄白は3代目で、当時の主流であった東洋医学では飽き足らずにオランダ外科も学んだ玄白は、宝暦2年(1752年)21歳で小浜藩医となり、江戸上屋敷に勤めた。
その後、外科医として日本橋で開業し町医者となり、二足の草鞋(わらじ)を履くことになる。
しかし、玄白は自らが信じるに足る医術が見つけられず、悶々とする日々を送っていた。
玄白に転機が訪れたのは十数年後、人生を変える一冊の本と出合う、それが「ターヘル・アナトミア」だった。
明和8年(1771年)、同じ小浜藩医・中川淳庵(なかがわじゅんあん)が、オランダ商館院から借りたオランダ語の医学書を持って玄白のもとを訪れたのである。
玄白はそれを見て「一文字も読めないが、内臓・骨格、これまで本で見て来たものとは全く違っている」と大きな衝撃を受ける。
日本の医学の遅れを目の当たりにした玄白は、藩の家老に相談して高価な本「ターヘル・アナトミア」を購入したのである。
中川淳庵
中川淳庵(なかがわじゅんあん)は、元文4年(1739年)に祖父の代から小浜藩の蘭方医を務めた家系に生まれた。
杉田玄白の後輩にあたる小浜藩医である。
前述したとおり、淳庵は玄白に「ターヘル・アナトミア」を最初に見せ、玄白と前野良沢と共に「解体新書」の翻訳に奔走した。
前野良沢
前野良沢(まえのりょうたく)は、享保8年(1723年)福岡藩江戸詰藩士・源新介の子として生まれたが、幼少で両親を亡くして母方の大叔父で淀藩の医者である宮田全沢に養われた。
寛延元年(1748年)宮田全沢の妻の実家である豊前国中津藩の藩医・前野家の養子となり中津藩医となる。
ある時、同じ藩の知人からオランダ書物の切れ端を見せられ、「国が異なり言葉が違っても同じ人間だから理解できないことはないだろう」と、蘭学を志す。
藩主の参勤交代に同行して中津に下向した際に長崎へと留学し、そこで西洋の解剖書「ターヘル・アナトミア」を手にすることとなる。
翻訳の開始
明和8年(1771年)3月、玄白は小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)があるとの知らせを受け、中川淳庵と面識のあった中津藩医・前野良沢を誘った。
驚いたのは良沢も「ターヘル・アナトミア」を持っていたことであった。この偶然に玄白は強い運命を感じたという。
彼らは実際の人体が「ターヘル・アナトミア」の通りであることに驚愕し、この本を翻訳しようと良沢に提案した。
かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢は賛同し、淳庵も加わって3人で中津藩の良沢邸で「ターヘル・アナトミア」の翻訳が開始された。
当初、玄白と淳庵はオランダ語がまったく読めず、オランダ語の知識がある良沢も翻訳を行うには語彙が乏しく、知っているのは700ほどの単語と簡単な文法程度であった。
オランダ語の通詞(通訳)は長崎にいるので、質問することもできず、当然辞書も無かったために、翻訳作業は暗号解読に近かったという。
玄白はこの厳しい翻訳の状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表している。
翻訳作業
オランダ語を少し学んでいた良沢は、見て分かる身体の外側の部分から訳し始めた。
頭・口・耳にあたる単語を一つ一つ日本語に置き換え、オランダ語の語彙を増やしていったのである。
しかし3人で知恵を絞っても1つも訳せない日々も続いた。
この時、玄白39歳・良沢49歳・淳庵33歳だった。
そんな中、玄白たちは翻訳作業の効率を上げるためにある方法を決めた。
それは「翻訳・義訳・直訳」だった。
例えば、本にある「H」の符号は骨であることが分かったので「骨」をそのままあてて訳した。
これが「翻訳」で、心・肺・耳・胃・目などが当てはまった。
文字と絵から意味は分かるけれども、対応する日本語がないものは「義訳」とし、「軟骨、神経、筋肉、十二指腸」などという造語を作ったのである。
翻訳をしようにも相当する日本語が無く、その解釈や義訳もできない時に使ったのが「直訳」で、オランダ語の音に漢字を当てはめた。
こうしてルールを決め、1か月で6~7回翻訳作業を行ったが、途中からは幕府のお抱え医師・桂川甫周も参加した。その他に石川玄常、烏山松圓、桐山正哲、嶺春泰などが関わっている。
また、平賀源内は「解体新書」の解剖図の画家として知り合いの絵師・小田野直武を杉田らに紹介し、挿絵を半年もかけて描いてもらっている。
その後、良沢が翻訳のリーダーとなり、プロジェクト全体を玄白がまとめていった。
そうした苦労の中、玄白は原文をそのまま訳すだけでなく、解釈も付け加えた。
この補足がなければ多くの人は「解体新書」を理解できなかったとも言われている。
根回し
こうして安永2年(1773年)翻訳・出版のメドがついたが、玄白には大きな不安があった。
それは世間の反応である。
「西洋医学のことでさえ世間はよく知らないのに、見たことのない西洋の解剖書など受け入れられるのか?」
そこで玄白は翻訳書刊行に先立ち、5枚1セットの「解体約図(かいたいやくず)」を出版することにした。
これは簡単な解剖図で「解体新書」を見る前に、まずはどのようなものか知ってもらうために出した今で言うパンフレットや広告のようなものである。
玄白は漢方医からの非難を最も心配していた。
この当時は漢方医が全盛の時代であり、西洋医学の解剖書を出すとなると、かなりの非難や反対が予想されたからである。
また、江戸幕府の対応も心配の要因の一つだった。
鎖国政策の中で、外国の書はかなり厳しい取り締まりが行われていたのである。
当時はキリシタン本を所有しているだけでお家取り潰しとなるほど厳しかった時代だったのだ。
そこでまずは広告を出すことで幕府の様子を伺った。
そして1枚目に記された署名は、筆頭に杉田玄白の名があり、構成には中川淳庵ら小浜藩の者だけを記載した。
他藩の人や良沢の名をわざと外したのである。
これは万が一捕まったとしても「良沢さえいれば、この後のことを託せる」とあえて名を記載しなかったのだ。
結局「解体約図」に対して幕府からのお咎めはなかったが、「解体新書」はどうなるか分からなかったために、玄白はさらに根回しを行った。
玄白は友人で将軍の奥医師だった桂川甫三(甫周の父)に頼んで、「解体新書」を時の将軍・徳川家治に献上したのである。
将軍・家治は「解体新書」に大きな感銘を受けたという。
こうして将軍のお墨付きを得ることに成功し、当時の幕政を牛耳っていた老中・田沼意次にも「解体新書」を献上した。
こういった玄白の根回しと良沢の実直な翻訳作業で、翻訳を始めてから約3年半、安政3年(1774年)ついに「解体新書」が刊行されたのだ。
「解体新書」は将軍のお墨付きもあり、江戸で大ベストセラーになった。
前野良沢の名が無い
3年半の歳月をかけて出版した「解体新書」だったが、この著書の欄には翻訳作業の中心であった前野良沢の名は無かった。
その理由としては、良沢が長崎留学の途中で天満宮に学業成就を祈った時に「自分の名前を上げるために勉学するのではない」と約束したため、名前を出すのを断ったという説。
また、良沢は訳文が完全なものではないことを知っていたので、実直で学者肌の良沢は名前を出すのを潔しとしなかったという説もある。
結局、良沢は名を載せることに対して首を縦に振らなかったのである。
影響
「解体新書」の刊行後、医学が発展したのはもちろんであるが、オランダ語の理解が進み、鎖国下の日本において西洋の文物を理解する下地ができた。
翻訳の際に義訳した「神経」「軟骨」「動脈」などの語が作られ、それらは今日でも使われている。
玄白が藩の中屋敷を出て開業すると、江戸一番の名医として評判になり、毎年1,000人以上の患者が殺到したという。
また、玄白は「天真楼」という医学塾を開き、後進の育成にも力を入れ、日本の医学界のリーダーとなっていった。
一方、良沢は「解体新書」刊行後は玄白とも疎遠になり、家にこもってオランダ語の研究に没頭し、世間からは「解体新書」の著者であることも忘れられ、享和3年(1803年)に81歳で亡くなった。
「解体新書」には誤訳も多かったので、後に玄白の「天真楼」で学び、良沢と淳庵にオランダ語を学んだ大槻玄沢(おおつきげんたく)が訳し直して、文政9年(1826年)に「重訂解体新書」が刊行された。
名前の「玄沢」は、師である玄白と良沢の2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。
玄白は75歳で隠居して回想録「蘭学事始(らんがくことはじめ)」を執筆した。
これは後に福沢諭吉によって公刊されている。
おわりに
玄白は「蘭学事始」の最後にこう綴っている。
「一滴の油を大きな池に落とせば、池いっぱいに広がるように、そんな風に蘭学の始めは前野良沢・中川淳庵と私の3人が申し合わせてかりそめに思いついたことでした。それが50年近くの歳月を経ると国内全体に及び、そこかしこにと広まって毎年オランダ語の翻訳書が出るようになったと聞いている」
玄白は、良沢と目指した社会が実現したことを喜んでいた。また、
「前野良沢が難しい翻訳を成功させたからこそ、今日の蘭学があるのだと言えよう」
とも綴っている。
対照的な性格であった2人であったが、志は最後まで同志だったのだ。
参考文献 : 蘭学事始
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