江戸の3大娯楽である歌舞伎・相撲・吉原は有名な娯楽であったがお金がかかるものであり、長屋暮らしの庶民には気軽に行ける場所では無かった。
そんな江戸の庶民達に流行したものとはどのようなものだったのか。
見世物
江戸時代には多くの様々な見世物興行が行われていた。それは庶民達の好奇心を満たすエンターテイメントであった。
見世物小屋が設けられていたのは人々の往来が多い盛り場であり、有名だった場所は両国広小路と浅草奥山で、多くの人々で賑わっていた。
見世物興行は主に3つの種類に分かれており、料金は出し物や江戸の時期により異なるが、江戸後期で入場料が32文(約640円)程であった。中には見世物小屋をはしごする人もいた。
また元々は見世物小屋は神社の参詣客を当てこんでいたが、見世物が人気になり参拝がついでになるほどであった。
江戸の見世物興行は一般的に50〜60日程は開催しており、人気なものは延長され数十万人も動員していたという。
主な3つの見世物
・軽業や曲芸などの芸能系の見世物
軽業のアクロバティックな身体芸は人気であり、幕末では早竹虎吉が大人気であった。
虎吉はずば抜けた身体能力で軽業をこなし、他にも三味線などの楽器も得意とした。衣装や道具にもこだわり軽業をビッグショーへと仕上げていた。
幕末の慶応3年(1867年)には一座を率いて渡米し、ニューヨークなどでの興行も果たしている。
他のユニークな見世物としては「曲屁」(きょくべ)というオナラ芸があり、これは音の高さや長さ、強さを変えながら放屁し、聞いている人々を楽しませた。
・竹などの素材を使った、人や動物の細工見世物
見世物興行の中で一番多かったのが「細工見世物」であり、江戸後期からは特に大ブームとなりその中で籠細工は人気であった。
そのきっかけとなったのは文政2年(1819年)に江戸の浅草奥山に登場した籠職人・一田庄七郎によって作られた、高さ約8メートルの三国志の武将・関羽の巨大な籠細工である。
巨大で色鮮やかな籠細工の興行は大人気となり、期間延長も重ねて動員数は40〜50万人ともいわれている。籠細工は歌舞伎にも影響を与え、セリフの中に籠細工のことが入っていたり衣装に籠目模様をあしらうなどした。また籠細工をテーマにした本も出版されるなど江戸では空前の籠細工ブームとなった。
他にも貝細工、菊細工などといった新しい作品も登場した。さらに幕末には新たなジャンルとして「生人形」(いきにんぎょう)が登場している。
生人形は生きているかのように巧妙で、極限まで追求したリアルさが特徴である。これは生人形の第一人者であり、天才人形師・松本喜三郎が見世物にしたといわれる。
・変わった生物などの動物見世物
象もラクダも現在では動物園などで見られるが、江戸時代にも舶来動物として海外から運ばれ人気を集めていた。
特にラクダはブームを起こす程大人気であった。ラクダは文政4年(1821年)に長崎へ来日し、大阪や江戸で見世物にかけられた。一説では両国の見世物興行では、ラクダを目的とした人々で1日に5000人もの人が押し寄せたといわれる。ラクダなどの「珍獣」を見ると、ありがたいご利益があるといわれ、他にもヒョウやクジャクも人気であった。
また「ミイラ」なども見世物とされており、江戸時代には専門の職人もいたとされる。その技術は高く海外にも輸出され、クオリティの高さから新種の生物だと勘違いする学者もいたという。
ミイラは人魚、鬼、龍など様々なミイラが存在していた。
さらには「人間」も見世物として登場していた。身体に特徴が見られる、いわゆる障害やなんらかの疾患を持つ人々であり、巨人症や多毛症など様々な人がいたとされる。
幕末に特に注目され人気だったのが肥後国出身の3姉妹であった。全員が肥満体型で、長女お松16歳は身長6尺8寸(約206センチ)、体重30貫800目(約115キロ)・次女お竹11歳は身長5尺7寸(約173センチ)、体重25貫700目(約96キロ)・三女お梅8歳は身長5尺1寸(約155センチ)、体重19貫800目(約74キロ)であったとされている。
3人は自身の名前の模様の着物を着て、麦こがしを売る売り子として登場していた。
富くじ
富くじとは現代の宝くじのことであり、人々は一攫千金を狙い買い求めた。
享保15年(1730年)8代目将軍・吉宗の治世に、幕府公認で寺社に限り富くじの販売が許可された。それ以外の私的な賭博行為は禁止されていた。
なぜ寺社でのみ富くじが許可されたかというと、当時幕府は財政難に苦しんでおり、寺社の修繕や再建などの費用を富くじを行うことで賄わせようとしたためであった。特に有名だったのは谷中感応寺・湯島天神・目黒不動尊で「江戸の三富」といわれ賑わっていた。
富くじに参加するには「富札」を購入する必要があり、その値段は1枚あたり金2朱〜金1分(約1万〜2万)程と高額であった。そのため庶民は数人でお金を出し合い購入したりしていた。
神社や富札屋から富札を購入し、同じ番号などが書かれた木札と紙札を渡され紙札は手元に、木札は寺社に返す。後日公衆の面前で抽選が行われるのだが、その方法は寺社で興行主が大きな木箱に納めた木札をかき混ぜ、箱に開けられた穴からキリで木札を突いて当選番号を決めていた。
当たりの最高額は100〜300両(約800〜2400万)が相場として多かったが、記録にある最も高い当たりの額は1000両(約8000万)であったという。
しかし全額がもらえるわけでは無くそこから、寺社や富札屋へ納めるなどの諸経費が引かれた額がもらえた。最終的に全体の7割程になったとされているが、1両小判を見たことがほとんど無い庶民にとっては夢があった。
富くじを題材にした落語や小説もあり大人気であった反面、全財産を富くじにつぎ込み、自ら命を絶ってしまう人々もいたという。
・陰富(かげとみ)
富くじの当選番号を当てるギャンブルである陰富も横行していた。
陰富とは個人が富札を作り、安価で密かに売りさばいていたものであり、その手軽さと配当率の良さで公式の富くじよりも人気となった。例えば1文で富札を売り、番号が当たった人にその8倍の8文にして返すなどしていた。
最初は長屋住人の「お慰み」だったものが武士階級へと広がり、ついには御三家の水戸藩までもが財政難から逃れるために陰富に関わり始めた。
このような違法富くじの横行や風紀の乱れなどの問題が起こり、後に幕府は天保の改革で富くじを全面禁止にしている。
現代の人々も江戸時代の人々も娯楽を求めることは同じであった。そしてギャンブル系はやはり、ほどほどが良いようである。
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