佐倉惣五郎とは
佐倉惣五郎(さくらそうごろう)とは、江戸時代初期の下総国佐倉藩主・堀田正信の苛政に苦しむ農民を救うために、自分の身を犠牲にして第4代将軍・徳川家綱にたった1人で直訴した人物である。
その訴えは聞き届けられて佐倉藩の領民は救われたが、惣五郎の一家はなんと全員が処刑されてしまった。
こうして佐倉惣五郎は「義民」として知られるようになった。
この逸話は「堀田騒動記」や「地蔵堂通夜物語」といった数多くの写本によって広まった。
今回は、佐倉惣五郎伝説の元になったとされる『地蔵堂通夜物語』を参考に、この事件の概要について解説する。
出自と確認できる生涯
佐倉惣五郎は、下総国印旛郡の堀田領内佐倉城下で生まれた。印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名を「木内惣五郎」という。
『佐倉花実物語』では、惣五郎の先祖は花井権太夫と名乗る北面の武士で、朱雀院の姫である松虫姫に従って下向した人物と設定されている。
一方『肥後国五家荘』には、五家荘葉木の地頭・尾形左衛門の子で、下総の木内家の養子になったという伝承がある。
佐倉惣五郎は実在したのか?
かつては非実在説が唱えられたこともあったが、堀田氏時代の公津村名寄帳によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことが確認されている。
公津村には惣五郎という農民がいて、村内で1、2の田畑や屋敷を持っていたという。
しかし、承応2年(1653年)8月に妻と共に刑死をし、子ども4人も同時に殺されたことで、その祟りを恐れて里民が石の祠を建てたことが明らかになっている。
万治3年(1660年)に佐倉藩主・堀田正信が改易となっていることからも、佐倉惣五郎が実在の人物で、この事件も事実であった可能性が極めて高いとされている。
『総葉概録』には、堀田氏の時代に公津村の「総五」という男が何らかの罪によって処刑され、冤罪を主張して城主を罵りながら死んだことから、堀田氏の改易が「総五」の祟りとみなされ「惣五宮」という祠が建てられたことが記されている。
物語のあらすじ
承応元年(1652年)堀田正信が佐倉藩主だった頃、干ばつや洪水に加えて年貢が上り、新たな税も課せられて領民の困窮は甚だしかった。
農民たちは年貢を納められず、先祖伝来の土地を失って路頭に迷う者が続出した。
農民たちは役人に賄賂を贈り、代官・郡奉行・勘定頭・国家老へ訴えたが、聞き入れられずに万策が尽き、ついに江戸屋敷へ訴え出ることを決めた。
農民たちは別々に分かれて密かに江戸に入り、約束の日に江戸屋敷の門前に集まった。門番が立ち去るように追い払うが「嘆願したいことがある!」と農民たちは一歩も引かなかった。
翌日、改めて下屋敷に行ったが、取り次ぎをした役人は農民の願いもろくに聞かず「早く国許に帰れ!」と門を閉ざしてしまった。
やむなく惣五郎を含む農民一同は、浅草の茶屋で相談し、当時名老中と評判だった久世大和守の登城を狙って、駕籠訴(かごそ)に及ぼうと決めた。
駕籠訴とは、幕府の高官や大名などが駕籠で通行するのを待ち受けて、訴状を投げ入れるなど直接訴え出ることである。しかし正式な手順を踏んでいないため、基本的には重罪であった。(とはいえ実際に処罰された例は少ない)
久世大和守が江戸城に登城する当日、農民たちは屋敷から出て来た駕籠をめがけて走り寄り、何とか久世大和守に訴状を受け取ってもらうことに成功した。
訴状は一旦受理されたが「評議が行われるまで時間もかかるだろう」と、ほとんどの農民たちは国許に帰り、惣五郎と5名の名主だけが残ることになった。
後日、呼び出しに応じて6人が久世大和守の屋敷に行った。
しかし「先日の駕籠訴は不届きであるが、今回は格別の慈悲で許す」とそれだけで、惣五郎たちの嘆願は聞き入れられず、玄関先にて差し戻されてしまった。
将軍に直訴
昨日までは念願が成就するものとばかり思っていた惣五郎たちは、訴状の下げ渡しに衝撃を受けた。進退窮まった一同は「国に帰っても何も変わらない。この上は将軍様に直訴するしかない」と、まさかの将軍への直訴を計画したのである。
直訴状は具体的には、佐倉藩領の印旛郡佐倉84ケ村、千葉郡千葉74ケ村、相馬郡布川29ケ村、武射郡山辺7ケ村の名主や農民が、6項目に渡って佐倉藩の年貢が高いことや農民の窮状を訴えたものであった。
将軍への直訴は当然警備が厳しいので、惣五郎は自分1人で直訴することを打ち明け「佐倉藩の農民代表として命を捨てる覚悟だ!」とまで言ったという。
4代将軍・家綱が上野東叡山寛永寺に参詣することを聞き、惣五郎は前の夜から寛永寺の黒門の三橋の下に忍び込んで将軍一行を待ち、遂に将軍への直訴決行に及んだ。
そして訴状はなんと、首尾よく脇にいた役人が手にすることになり、佐倉藩主・堀田正信へと下知された。
これにより、事の仔細は堀田正信の知るところとなった。失政を指摘された正信は国許の役人を厳しく叱責し、佐倉藩は大騒動となった。
正信は「このような直訴が起きたのは、国許の役人らの勤め方が悪い」とし、佐倉藩の役人らを吟味し、農民たちの願いを聞き入れるように強く命じた。
こうして訴えは聞き届けられる形となり、結果的には佐倉藩の領民は救われた。
しかし地方役人たちは、なんと「惣五郎はとんでもない悪党で、直訴の頭取として極刑にすべきである!」と主張したのである。
こうして惣五郎は囚人駕籠に入れられ、他の5人は腰縄を打たれて江戸から佐倉に送られた。
惣五郎については一家全員が処刑、5人の名主には佐倉十里四方への追放との裁定が下された。
家老や一部の家臣たちからは「惣五郎の直訴は大罪であるが、妻を同罪にするのは如何なものか」「子どもたちは死罪ではなく追放が相当ではないか」という意見も出た。
しかし藩主・堀田正信は地方役人の主張を受け入れ「惣五郎は磔刑、夫の企てを隠した罪で妻も同罪、子ども4人は父の罪で死罪」と厳しい裁定を申し渡した。
磔刑の理由となる罪状は「直訴の罪」「久世大和守への駕籠訴の罪」「藩の役人に従わず難渋を申し立てた罪」「徒党を組み頭取を務めた罪」の4つであった。
惣五郎一家の処刑後、国許の役人たちにも追放の処分が下されて、この騒動は幕を閉じることになった。
直訴後の影響「惣五郎の怨霊」
この後、藩主・堀田正信は幕政を批判し、怒りに任せて無断で佐倉城に帰ったために改易となり、最後は遠流先の徳島において自害した。
また正信の弟・堀田正俊は、5代将軍・綱吉の将軍職争いに功績があり、大老にまで上り詰めたが、なんと江戸城内で刺殺されるなど、奇しくも惣五郎の事件以来、堀田家に不運が続くことになる。
正俊の子・正仲は、堀田家が将軍から忌み嫌われたためなのか、山形・福島へと間をおかずに転封となり、不遇の生涯を送ることになった。
こうした数々の堀田家の惨状に、人々は「惣五郎の怨霊の祟りだ」と伝承するようになったのである。
そして再び堀田家に光が差すのは、8代将軍・吉宗時代の延享3年(1746年)に、堀田正亮が山形から佐倉藩主に返り咲いた時である。
堀田正亮は惣五郎を祀り「口明神」と称し、宝暦2年(1752年)惣五郎一家の百回忌の年であるとして、亡き惣五郎に「涼風道閑居士」の法号を諡号し、百回忌を手厚く弔った。
これによって惣五郎は公に認められた「義民」として崇められると共に、信仰の対象になっていったのである。
作品化
その後、実録本『地蔵堂通夜物語』や、講釈師の石川一夢・初世一立斎文車らによる『佐倉義民伝』が編まれた。
佐倉惣五郎を主人公にする実録本については『地蔵堂通夜物語』に代表される地蔵本系と、『堀田騒動記』『佐倉騒動記』に代表される騒動記系、更に騒動記系から発展した『佐倉花実物語』は、惣五郎の幼少期の物語が新たに創作されている。
この『佐倉花実物語』は、読本『忠勇阿佐倉日記』の素材として用いられている。
最初の舞台化は歌舞伎狂言『東山桜荘子』で、江戸の中村座で上演され、歌舞伎史上初の「農民一揆」を扱った作品として大ヒットした。
これ以後、「義民物」と呼ばれるジャンルができ、こうして物語や芝居に取り上げられたことで、佐倉惣五郎は「義民」として知られ、惣五郎を主人公とした『佐倉義民伝』は、歌舞伎・講談・浪曲・前進座など様々な芸能で人気の演目となったのである。
おわりに
佐倉惣五郎は、農民のために自分の命を投げ捨てて将軍に直訴した、まさに「義民」であった。
惣五郎一家全員が死罪となり、その後、藩主である堀田家が次々と不幸に見舞われたために「惣五郎の怨霊、祟り」という噂も立ったが、そのことで人々に惣五郎の存在がより知られることとなった。
地元の人たちは、自分の命を投げ出して領民を救った義の男・佐倉惣五郎のことを忘れなかったことだろう。
参考 : 『地蔵堂通夜物語』他
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