エレナ・チャウシェスクは、ルーマニアの独裁者であったニコラエ・チャウシェスクの妻にあたる人物です。
夫のチャウシェスクは、ルーマニア共産党の書記長として権力を握り、自国民に対して強烈な個人崇拝と厳しい抑圧を敷きました。世界の独裁者ランキングに必ず入る人物です。
今回の記事では、夫のチャウシェスクではなく、妻・エレナの信じられない政策を紹介したいと思います。
エレナとチャウシェスクの出会い
1916年、エレナはルーマニアの小さな村に生まれました。勉強は苦手だったようで、小学校を中退しています。中退後は、首都ブカレストにある工場に勤務しています。
このときルーマニア共産党に入党し、チャウシェスクと出会いました。そして、1946年にチャウシェスクと結婚します。共産党に入党して結婚という流れは、毛沢東の妻である江青に似ています。
1965年、チャウシェスクはルーマニア共産党の書記長に就任します。エレナはファーストレディーになったのです。
小学校中退から工場勤務、そしてファーストレディー…。本来ならシンデレラ・ストーリーになるはずです。
しかし彼女によって、多くのルーマニア国民が犠牲になってしまいました。
毛沢東の妻・江青のアドバイス
もともとエレナは夫の政治に対して、口出しすることはしませんでした。
しかし、チャウシェスクは毛沢東と親交がありました。ルーマニアと中華人民共和国は共産主義を掲げていたからです。
エレナは毛沢東の妻である江青に「もっと政治に積極的に参加した方が良い」とアドバイスされます。
この言葉を受けて、エレナも政治に関わるようになったのです。
エレナが実施した愚かな政策
エレナが取り組んだのは人口増加政策でしたが、その結果は惨憺たるものでした。
1966年10月、チャウシェスクは法律を制定し、母親が40歳以上か4人以上の子どもを持っている場合を除いて、中絶と避妊を禁止します。また子どもがいない25歳以上の家族や、子どもが5人未満の女性に対して、高額な税金が課されました。
その一方、子どもが5人以上の女性には国から物資の援助や勲章が与えられたのです。 ちなみにエレナは2人しか産んでいません。
しかし、この政策は多くの問題を引き起こします。無理な出産によって多くの女性が死亡したり、孤児やHIV感染者が増加するなど、さまざまな社会問題が引き起こされたのです。
多くの親は子どもを育てることができず、孤児院に預けたり捨てたりしました。さらに孤児院の環境は劣悪で、子どもたちはネグレクトや虐待にさらされたのです。
栄養不足や感染症などで命を落とす子どもも多くいました。
そしてルーマニア革命へ
チャウシェスク夫妻のあまりの横暴ぶりに、国民はついに革命を起こします。
チャウシェスク夫妻が住む宮殿を、国民たちが取り囲み、暴動を起こしたのです。その数は10万人ともいわれています。
暴動によって亡くなった人の遺体を、エレナは密かに遺体安置所から持ち出して火葬させています。その遺灰は水路に投げ捨てられました。弾圧や拷問された痕跡を残さないためです。エレナは「バラ作戦」と名付けました。
収まらない暴動を受けてチャウシェスクは、国防相ヴァシレ・ミリャに対して国民を排除するよう命令します。しかしミリャは「国民に銃は向けられない」と拒否しました。その翌日、ミリャは死体となって発見されたのです。公式発表では自殺ですが、チャウシェスクによって射殺された可能性が高いとされています。
国防相を失ったルーマニア軍もさすがに怒ります。チャウシェスクは軍にも見放されたのです。すべてを敵に回したチャウシェスク夫妻は逃亡を図りましたが、ヘリコプターに乗り込む直前に捕えられます。そして、その日のうちに裁判にかけられました。
判決結果は死刑。すぐに銃殺処刑されました。
チャウシェスク夫妻の処刑シーンは、全国で生中継されました。1989年12月25日、クリスマスの出来事になります。
夫のニコラエは71歳、エレナは73歳でした。
「チャウシェスクの落とし子」
チャウシェスク政権は崩壊しましたが問題は終わりませんでした。エレナの人口増加政策によって生まれた多くの子どもたちが、孤児院から逃げ出して路頭に迷うなど、ストリートチルドレンとなりました。行き場を失った彼らはマンホールに住み、物乞いをしたり、薬物に溺れることになりました。
教育を受けていないため、手に職を付けることができないのです。
彼らは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれています。
チャウシェスク夫妻が行った人口増加政策は、ルーマニア国民に大きな悲劇をもたらしました。その影響は現在も残っています。
ルーマニアは共産主義から資本主義に移行しましたが、依然として経済状況は厳しく、貧富の格差も改善されていません。旧共産主義の体質を脱却できず、政治家や役人の汚職がなくならなかったからです。ルーマニア人の多くが職を求め、移民として外国に渡りました。
しかし2007年、EU(欧州連合)に加盟したことで、少しずつ海外からの投資や観光客が増えつつあります。
チャウシェスクによって大きな傷を受けたルーマニアですが、徐々に回復している途中であるといえるでしょう。
参考文献:早坂隆『ルーマニア・マンホール生活者たちの記録』現代書館、2003年6月
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