村上春樹の『ノルウェイの森』は、極めて哲学的な文学作品であると感じています。
人間の「死」について、とても深く考えてしまうからです。
今回の記事では哲学者のハイデガーとサルトルの死生観を参考にしつつ、村上春樹の『ノルウェイの森』を見ていきたいと思います。
死は生の対極としてではなく…
たとえば次の一節です。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(『ノルウェイの森・上』)
『ノルウェイの森』の冒頭では、高校時代に出会った3人の関係が描かれています。主人公のワタナベ、直子、そしてキズキです。
直子とキズキは恋人の関係でしたが、キズキは突然自殺してしまいます。そしてキズキの死によって、直子は心の大事な“何か”が決定的に失われてしまうのです。
高校卒業後、ワタナベと直子は上京し、別々の大学に進学しました。しかし直子はキズキの不在を受け入れることができず、大学を中退し、山奥にある療養施設で生活を送るようになります。ワタナベは大学に通いながら、時間があるときに直子を訪ね、直子がリカバリーできるようサポートを続けます。
キズキの死を経験したワタナベは、以下のように述べています。
そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ>と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的にすでに含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。(『ノルウェイの森・上』)
ハイデガーの死生観
上記にあるワタナベの思想は、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガーに近いと言えるでしょう。
ハイデガーは『存在と時間』のなかで、自分の死から眼を背けて生きる生き方を「非本来的である」と言っています。
ハイデガーの考える「自分の死」をまとめると、以下の通りです。
誰にも替わってもらうことができず、誰の手助けも受けられず、死が来ることは確実だが、いつ来るのかは決まっていないし、死の向こうに行ってみることも決してできない、最後の可能性である。
ハイデガーのいう「本来的」な生き方とは、不断に自分の死に直面し、死に対して覚悟を定めて生きる生き方です。彼は「死に臨む存在」という表現をします。
主人公のワタナベはキズキの死を受け入れ、直子をサポートするため、前向きに生きようとします。しかし物語の終盤で起きた「あること」で、ワタナベは死に対する考え方を微妙に変化させます。「あること」に関しては、ぜひ実際に『ノルウェイの森』を読んでいただけたらと思います。
サルトルの死生観
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかし、それは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。
どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学び取ることしかできないし、そしてその学び取った何かも次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。(『ノルウェイの森・下』)
フランスの哲学者であるサルトルは『存在と無』のなかで、ハイデガーを意識しながら「自分の死」について論じています。
ハイデガーとは異なりサルトルにとって、死は「自分の可能性」などではありません。死は私の可能性をすべて無にし、自分の人生からすべての意味を奪い去る、まったくの不条理で偶発的な出来事なのです。
サルトルによれば、自分の誕生、つまり自分の生まれた事実は、選ぶことも理解することもできない不条理な出来事になります。それと同様に自分の死、つまり私がいつか死ぬという出来事に関しても、理解したり対処することなどできない、不条理な事実なのです。
主人公のワタナベは当初、ハイデガーのような死生観を抱いていましたが、最後はサルトルと同じような結論にいたることになります。
村上春樹の死生観
身も蓋もない内容になってしまい申し訳ありませんが、最後に村上春樹と読者のやりとりを紹介したいと思います。
ある読者の質問「人間に生きる意味はあるのか?」に対して、村上春樹は以下のように回答しています。
人間というのは生まれて、どたばた生きて、死んで失われていくだけだというのが、僕の基本的な人生観です。目的も意味も、とくになにもありません。
「人間が生きる意味なんてない」と言い切ってしまいますが、さらに続けます。
ただその『どたばた』の中に、ある種の一貫性を見いだすことによって、無意味さの苦しみをある程度緩和させることは可能だろうと考えます。
この世界を生きるにあたって、人間にとってはちょっと辛いことが多すぎます。だからこそ、私たちは文学(物語)を求めるのではないでしょうか。
参考文献:
村上春樹『ノルウェイの森』講談社、1987年9月
村上春樹、安西水丸『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』朝日新聞社、2006年3月
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