徳川家康の次男として生まれ、豊臣秀吉・結城晴朝とたらい回し、もとい養子に出された結城秀康(於義伊)。
複雑な生い立ちながら、父譲りの武勇をもって年若くも活躍を重ねます。
時は慶長5年(1600年)、豊臣秀頼の後見役(五大老)の一人であった家康が、会津の上杉景勝を討伐するべく兵を挙げました。
そこにはもちろん秀康も従軍。今回も武勲を立てようと意気揚々、下野国小山までやって来た時のことです。
三成挙兵!家康はどうする?
……明る年の秋、徳川殿、奥の景勝中納言、御誅伐の時に上方の早馬来て、大坂の兵起りぬと申す、御方の大名小名、小山の御陣に集て。軍評定す、……
「申し上げます!上方にて石田治部(三成)らが兵を挙げ、伏見の城を攻め落としました!」
伏見城は家康の城代として鳥居元忠が守っており、彼らはことごとく討死して果てました。
「おのれ治部め、内府殿の不在を狙って兵を挙げるとは卑怯千万!」
諸将は口々に三成を批判しますが、家康は計画通りと内心ほくそ笑みます。
……先づ此所より引返して、上方に向はせ玉ふべきに議定す、徳川殿、本多佐渡守正信を召され、家康西に向はん時、景勝頓て跡を追て攻めのぼるか、さらずば又関東にや乱れ入らん、誰か此所尓残り留て、軍をばすべきと仰らる、正信誰とか更に申べき、守殿に若くことやあるべきと申、さらば召せとて召す、……
「これより直ちに上方へとって返し、石田治部を討つ!」
家康は待ってましたとばかり全軍に号令しました。
「さて……」
今度は上杉景勝に背中を見せることになるため、その追撃を防ぐために誰かを残さねばなりません。
果たして誰が適任か……家康は佐渡守こと本多正信に相談しました。
「三河守(秀康)殿より、おいでますまい」
「然らば、早急に申しつけよ」
……守殿御参りあるに、正信むかひ参らせて、いかに守殿、天下の安危は、今日に決し候ひぬ、能く心して物申させたまへと申て、御跡に随て御前に参る、徳川殿東西の軍の事、御物語有て後、おこと我が為に此所に留りて、関東を鎮めなば、我はまづ上方に向て戦んとおもふは如何にと仰ければ、守殿御気色あしう成て、秀康いかでか御後に残り候べき、只いづく迄も、御先をこそかけ候べけれと、のたまへば、……
「お呼びにございましょうか」
秀康がやってくると、正信が任務を伝えます。
「かくかくしかじかにて、三河守殿がここで上杉の追撃をお防ぎ下されば、内府様も背後の憂いなく戦えるというもの」
これを聞いて、秀康は怒りだしました。
「何を仰せか!これから石田治部と天下を分けた大戦さが始まろうと言うのに、それがしはここで何をすればよいのか。どこまでも先陣を駆けてこそではないのか!」
今にも斬りかからんばかりの秀康を、正信は諭します。
上方の連中より、景勝の方が強敵?
……上方の軍勢は、みな国々の集り勢、何十万騎ありとて、何程の事かあるべき、抑上杉が家は、累代坂東の大将にて、中にも故輝虎入道が時に至り、弓矢取て天下に肩を並ぶる者すくなかりき、されば其子として景勝、又幼弱の昔より軍の中に成長し、年既にふけぬ、当時かれに向て、たやすう軍せんもの多からず、あつはれ、おことがためには、能きかたき、海道に向ひ、打込の軍せんよりは、おこと一人こゝに留て、軍したらんは、且は弓矢とつての面目、何事の孝行か、是に過べきと仰ければ、……
「何をおっしゃる。上方の連中など何十万騎が束になろうと敵ではござらぬ。むしろ上杉は関東管領として東国に名を馳せた強豪。かの謙信入道は天下無双の名将、その薫陶を受けた景勝こそは此度一番の強敵にござる。三河守殿でなくて、誰が食い止め切れようか。これこそ武士の面目、お父君に対してこれ以上の孝行はございますまい」
……とか何とか。
……やゝ有て、守殿軍は必勢の多少によらぬと承る、上方の大将にも名を得たる輩少からず、勢のほども又さこそ多からめ、秀康いまだ軍には慣らはねども、景勝一人が勢と戦んに、何程の事か有べき、あはれ大将をだに御許しあらんには、此所にや留り候べきと、宣ひしかば、正信聞きもあへず、いしくも仰せ候ものかな、関東を鎮め給はんには、大将を参らせ給はんこと、仰にや及べきと申ければ、……
これを聞いて、秀康はすっかりその気に。素直ですね。
かくして後顧の憂いを絶った家康が、大喜びしたのは言うまでもありません。
……徳川殿世に御嬉しげにて、頻りに御涙をながされ、みづから御鎧一領取出して、抑此鎧は、家康が若かりしより、身に附て、終に一度の不覚もおほえず、父が嘉例に准へて、こたび奥方の大将して能き軍し、天下に名をあげ玉ふべしとて、参らせらる、守殿も、御心地よげに御暇申させたまひ、下野国宇津宮に陣取て、関東を鎮めたまひしに、上方の軍破れて後、景勝も降を乞ひぬれば、伏見に参り給ひけり、……
これでこそ我が息子……家康は涙を流しながら秀康に鎧を与えます。
「これはわしが若い頃から身につけて、戦で一度も不覚をとらなかった鎧である。きっとそなたにも武運を加護してくれようぞ」とか何とか。
何かと屈折した人生を送ってきた秀康は、父上に使命を託されたと大はりきり。
上杉景勝の軍勢を相手に大暴れし、上方の戦がやんだ後、意気揚々と伏見へ上ったのでした。
終わりに
……此度の勲賞に越前国賜て、明る慶長六年の五月、福井の城に移り給ひぬ、 六十七万石を領し給ふ、按する尓、守殿宇津宮より江戸に入せ玉ひ、夫より伏見に参り玉ひ、越前を賜て、伏見より越前へ入らせ玉ひしなり、北庄を改めて福井と名つけ、城築かれしなり、 其後従三位中納言に至て同き十二年閏四月八日、御年三十四歳にて世をはやくし玉ひぬ、
※『藩翰譜』第一
関ヶ原の戦いで家康の背中を守り抜いた秀康は、今回の武功により越前国を賜りました。
よく慶長6年(1601年)5月に福井城へ入り、67万石の大大名となります。
そして慶長12年(1607年)閏4月8日、秀康は34歳の若さで世を去ったのでした。
この若き英雄の活躍がNHK大河ドラマ「どうする家康」では描かれるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 新井白石『藩翰譜 一』国立国会図書館デジタルコレクション
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