戦国時代には様々な謎がある。その中でも有名なのが、織田信長や豊臣秀吉とも深いつながりがあった千利休の切腹だ。
通説では、天正19年(1591)に69歳という高齢にもかかわらず、秀吉に切腹を命じられて死去したとされているが、生存説もあるのである。
今回は、この「生存説」に注目していきたい。
千利休の切腹理由とは
千利休が切腹した理由は諸説あり、以下となっている。
・京都の大徳寺三門の楼閣に千利休像を設置したことで、秀吉を怒らせた。
・秀吉の側近だった石田三成や、その一派からはめられた。
・茶の湯の考え方が、秀吉と徹底的に合わなくなった。
・茶器の売買で大儲けしていた。
中でも有力視される説は『大徳寺三門で怒らせた説』『茶の湯の考え方が合わなくなった説』の2つである。
映画や小説などでも、この2つのシーンはよく描かれている。
利休が切腹させられた理由については、以下の記事がより詳しい。
千利休はなぜ秀吉に切腹させられたのか? 「木像事件説、三成黒幕説、利休の娘説~」
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/56380/#i-6
千利休が切腹していない説とは何か?
しかし近年、千利休の生存説も巷で話題となっている。
それは2019年に上梓された『千利休 切腹と晩年の真実 (朝日新書)』がきっかけである。
この本では「1591年に発生した切腹説は真っ赤な嘘で、千利休は生存していた」という説が提唱されている。
その根拠としては概ね以下となっている。
・利休が切腹をした事実を裏付ける一次資料が皆無で、信憑性が薄い。
・利休切腹後、秀吉が母に送った手紙に「今日も利休の点てた茶を飲んで体調も気分も良い」といった記述がある。
・当時の公家日記である西洞院時慶の『時慶記』と、勧修寺晴豊の『晴豊記』に「利休は茶器の売買で不正に大儲けした事が発覚し、逐電した」といった記述がある。
・勧修寺晴豊の『晴豊記』ではさらに「木像が磔(はりつけ)にされた」といった記述がある。
・伊達政宗の家臣である鈴木新兵衛の書状には「利休が行方知れずになり木像が磔になった」とあり、『晴豊記』と内容が合致する。
・奈良の多聞院の日記には「利休が切腹した」「利休が高野山で像を貼り付けにした」と両方がある。
・北野社家日には「利休が成敗された」とあるが、これは伝聞史料である。
・利休切腹説が通説になった理由は、1653年に紀州徳川家に提出した『千利休由緒書』であり、そもそもこれが信頼に足らない。
「千利休が切腹をしたという事実を裏付ける一次資料がない」「木造が磔になったという記述が、様々な史料で一致している」など、信憑性のある仮説と言えるのではないだろうか。
千利休が生存していたのなら、どこにいた?
仮にこの説が正しかったとすると、1591年以降の彼はどこにいたのだろうか?
『千利休 切腹と晩年の真実 』によると、九州地方にかくまわれていたようだ。
利休は、切腹からは逃れることはできたが茶器の売買などで秀吉を怒らせたのは事実で、さらには茶人仲間や商人たちからも嫌われていたという。
そのため、逃げ出さないといけない状態となり、そのための手引きを高弟である細川三斎(忠興)が行ったとしている。
さらに秀吉が母に手紙を書いた時、九州の名護屋城にいたことも判明しており「今日も利休の点てた茶を飲んで体調も気分も良い」といった記述も辻褄が合うのである。
利休の嫡子・道安も、細川三斎から豊前国(大分県北西部)に300石の領地を与えられているという。
以上が「利休は京都から逃げ出した後、九州地方にかくまわれていた」という仮説である。
しかし、利休は生存していたとしても切腹騒動の後は表舞台に出てこなくなってしまった。
それでも、その後は一人で茶の湯を極めんと余生を過ごしていたのかもしれないと考えると、筆者としてはうれしくなってくる。
参考文献 : 千利休 切腹と晩年の真実
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