大正&昭和

なぜ犬養毅は暗殺されたのか? 「話せばわかる → 問答無用! 」五・一五事件

前編では、犬養毅(いぬかいつよし)が福沢諭吉と出会い、言論で国を動かす政治家を志し、薩摩藩・長州藩中心に行われていた藩閥政治と戦いながらも、ついに念願の「普通選挙法」が成立し、政界から引退したところまで解説した。

今回の後編では、犬養毅の政界への復帰、そして「五・一五事件」で、なぜ犬養が暗殺されてしまったのか、掘り下げていきたい。

張作霖爆殺事件と犬養の再登板

昭和3年6月、満州で一大事件が起きた。

現地の部隊の関東軍が、独断で満州の実力者・張作霖(ちょうさくりん)が乗った列車を爆破し殺害したのだ。(張作霖爆殺事件)

画像 : 張作霖が爆殺された現場の写真。画面左側の鉄橋が崩落しており、この崩落した鉄橋の下で張作霖乗車の列車が大破し、張作霖は救助後に死亡した。また側近ら17名も死亡した public domain

大陸における軍の暴走は、日本の政局を大きく揺るがした。

翌昭和4年7月には、政友会の田中義一内閣が、事件の処理を巡って天皇の不興を買い、総辞職に追い込まれた。

当時の議会は、政友会民政党の二大政党制で、この二大政党が交互に政権を担っていた。
失政によって内閣が倒れた場合には、野党第一党の党首に組閣命令が下るのが慣例であった。

慣例通り、次は民政党内閣が成立したが、アメリカに端を発する世界恐慌の嵐が日本にも押し寄せた。
民政党内閣の緊縮財政は民衆の暮らしを直撃し、特に農村の生活は貧窮を極めた。

この時に野党の政友会が総裁として迎えたのが、既に政界を引退していた犬養であった。
犬養はこの時75歳、少数政党出身で党内基盤は弱い。

しかも、政友会には軍に同調して大陸権益拡張を図る勢力も多かった。

だが、犬養は総裁就任を引き受けたのである。

首相就任

画像 : 演説する犬養(政友会総裁のころ) public domain

犬養が直面したのは、止まらない軍の暴走だった。

昭和6年9月、満州事変が勃発、政府の不拡大方針にもかかわらず、現地の関東軍は矢継ぎ早に戦線を拡大していった。

これに呼応して10月、国内で陸軍のクーデター計画が発覚、首相を暗殺し軍事政権を樹立するという目論見だったが未遂に終わった。(十月事件
この危機に、犬養はいち早く対応した。

事件発覚直後に、当時天皇の重臣だった西園寺公望(さいおんじきんもち)に使者を送って「陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない。どうにか連立していかなければ駄目だと思う」と告げたのだ。

これは、議会で多数を占める民政党の若槻内閣との連立を組み、軍を押さえるという協力内閣案である。
しかし、経済政策を始めとして両者の隔たりは余りにも大きく、11月になると犬養は協力内閣案を撤回した。

一方、与党・民政党でも、独自に協力内閣案が議論されていた。
だが、推進派と慎重派の間で内紛が勃発し、民政党・若槻内閣は閣内不一致で総辞職してしまうのだ。

慣例に従えば次の首相は、野党第一党の政友会の犬養だった。
12月12日、首相指名の権限を持つ元老の西園寺から、犬養に呼び出しがかかる。

画像 : 西園寺公望 大勲位菊花章頸飾を佩用した西園寺(1928年)public domain

西園寺は「先ほど次の首相は犬養しかいないと陛下にお伝えした。陛下は軍が国政や外交に立ち入ることを深く憂いておられ、強力な内閣を作って欲しいと切望しておられる」と切り出した。

ここで西園寺は、犬養に選択を突きつけた。

協力内閣のことが話題となっているようだが、どうお考えか?

既に、与野党共に手を引いた協力内閣案が、再度蒸し返されたのである。

犬養は考えた。

慣例に従えば、我が政友会の内閣が本筋だから単独内閣を選ぶのが良いのではないか?議会で多数を占める民政党と連立を組めば彼らの政策・緊縮財政を引き継ぐことになる。農村はすでに疲弊しきっている。このうえ更に景気が悪くなれば民衆の不満が募り、先のクーデター計画のような事態になりかねない。

気がかりなのは、宮中や西園寺公が協力内閣に傾いているように見えることだ。もし西園寺公の意中がそこにあるならば、土壇場で首相指名が反故になる可能性もある。

協力内閣もやむなしか?」と、犬養は思い悩んだ。

そして昭和6年12月13日、犬養は第29代内閣総理大臣に就任した。
犬養が選んだのは、政友会の単独内閣であった。

その頃、大陸では関東軍が更なる戦線拡大を目指し、各地で中国軍との衝突を繰り返していた。
難局の最中で首相の大役を引き受けた犬養、しかし、そこには確かな成算があった。

中国との講和を画策

犬養はかつて中国の革命家・孫文の革命運動を援助したことがあり、当時の中国・国民党政府のトップは孫文の息子・孫科であった。
犬養はその人脈で事変を収拾しようとしたのだ。

組閣の3日後に、犬養は共に孫文を支援した同志の萱野長知(かやの ながとも)を呼び出して

画像 : 萱野長友 public domain

「君、一つご苦労だが現在の中国内情を探り、深刻な状態にある時局打開の方途を見出してくれないだろうか?」

と告げた。

12月下旬、中国に渡った萱野は交渉を開始し、事態の進展を電報で伝えた。

「中国政府は、満州問題解決のために東北政務委員会を組織、日本と直接交渉に入り撤兵について話し合う準備がある」

ところが、犬養からの返答は一向に届かなかったのである。

何と萱野からの電報は、内閣書記官長の森恪が、犬養に届くその前に握り潰していたのだ。
森は軍と同様に満州の直接支配を考えていた男であり、今回の犬養と萱野の動きの妨害に出たのである。

更に翌昭和7年1月28日に、上海事変が勃発した。

これによって中国側の態度が一気に硬化し、交渉による解決の道は完全に閉ざされてしまった。

「五・一五事件」で暗殺される

しかし犬養は不屈であった。

昭和7年5月1日、犬養はNHKのマイクの前に立ち、国民に語りかけた。

「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい。政友会の内閣である以上は、決して外国に向かって事を起こして侵略しようというような考えは毛頭持っていないのである」

軍の侵略主義を断固として否定した犬養だったが、その2週間後に事件は起きたのである。

昭和7年5月15日午後5時、海軍の青年将校ら9人が、首相官邸を襲撃した。

画像 : 五・一五事件・直後の首相官邸の日本間の玄関 public domain

警備していた警官を銃撃し、突入してきた青年将校たちに対して、犬飼は

「まあ待て、まあ待て。話せばわかる。」

と言いながら、広い客間に移動してテーブルに座り、青年将校たちと話し合いをしようと試みた。今の日本の現状や自分の考えを説こうとしたのである。
しかし、少し問答したところで、青年将校の一人が

「問答無用、撃て、撃て!」

と叫び、頭部の左側と右こめかみの辺りを撃たれてしまったのである。

即死は免れたが、弾丸は脳にまで届いていた。
しかし、犬養はこの時点ではまだ意識があり、心配して駆けつけた女中に

「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」

と強い口調で語ったと言う。撃たれながらも、まだ話し合おうとしていたのである。
その後も意識はあり、息子の問いかけにも応じていたが、次第に衰弱して午後11時26分、犬養毅は死去した。(76歳没)

なぜ犬養毅は暗殺されたのか?

犬養が暗殺された理由としては、当時の時代背景がある。

先述した世界恐慌の嵐が日本にも押し寄せており「昭和恐慌」となっていた。
農村の生活は貧窮を極め、娘たちの身売りが日常化しているほどだった。貧富の差が大きく「富裕層を守るばかり」と見られた政党政治を敵視する者が多かったのである。

実際に、この時期は『昭和維新』の実現を目指して、クーデター未遂(三月事件、十月事件)が相次ぎ、この五・一五事件の4年後には二・二六事件が起こっている。

そして五・一五事件の2年前に開催された、ロンドン海軍軍縮会議である。
これは簡単に言えば、列強海軍の軍縮を目的とした国際会議であったが、これに日本政府が調印したことで海軍軍人の政府に対する不満が高まった。こうして一部の海軍将校たちはクーデターによる国家改造計画を抱き始め、犬養毅は不運にもその標的とされたのである。

しかし犬養は、当時の濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮会議の調印においては、「統帥権の干犯である」として反対の立場をとっていた。(※詳しくは「統帥権干犯問題」)

本来は「軍縮」寄りだったはずの犬養であったが、この時は政友会が第17回衆議院議員総選挙で大敗したことや、在郷軍人会が有力な支持母体と化していたことなどで、軍縮に批判的な立場をとっていたのである。

つまり、軍部との関係は悪くなかった。

しかし、五・一五事件が計画された時に、たまたま政府の長が犬養だったため、不運にも標的とされてしまったのである。実際に青年将校たちは「犬養氏に恨みはなかった」と後に語っている。

その後、五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたが、なんと万単位の国民から助命嘆願があり、数年後に全員が恩赦で釈放されている。

つまり青年将校たちがとった行動は、当時の多くの国民が共感するものであり、犬養は不運な時代の流れに巻き込まれてしまったと言えよう。

画像 : “東京朝日新聞 号外(昭和7年5月15日付)”。木堂が頭部を撃たれて重態であることなどが報道されている。また、日付が4月15日と間違って印刷されており、混乱している様子がうかがえる。public domain

最後に

犬養の死は、時代の大きな転換点となった。

政友会は後継内閣の樹立に動いたが、組閣の大命は海軍の長老・齋藤實に下った。

以後、政党内閣は生まれることはなく、日本は軍主導のもと、戦争への道を突き進んで行くことになる。

青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切る形となった。

 

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