三国志の世界では「隠れた秀才」と呼べるような逸材が存在している。
今回はその逸材の中でも「三国志序盤で活躍して、気がついたら消えていた」とよく言われる皇甫嵩(こうほすう)について掘り下げていこう。
特に黄巾の乱において大きな活躍をした皇甫嵩だが、それ以降の董卓 vs 反董卓連合といった大規模合戦ではめっきり見なくなってしまうのだ。
はたして、彼は黄巾の乱以降どこで何をしていたのか、そもそも何者だったのかについて解説する。
皇甫嵩の概要
まずは、皇甫嵩とは一体どんな人物だったのか、簡潔にまとめていこう。
人名:皇甫嵩(こうほすう)
字:義真
出身:涼州安定郡朝那県
出生:生年不詳(三国志14では132年)
没年:195年
父親:皇甫節
母親:不明
主な参戦:黄巾の乱、辺章・韓遂の反乱
関わりの深かった人物:盧植・朱儁・董卓
最後の官位:太常・都郷侯
三国志14パラメータ:統率90、武力61、知力73、政治51、魅力75三国志14でのプロフィール:
後漢の官僚。
【演義】盧植、朱儁と共に、何進から黄巾賊討伐を命じられる。曹操を指揮下に加え、張宝と張梁を火攻めで撃破。曲陽で張梁を斬るなど活躍し、乱の平定後、車騎将軍、冀州牧となる。戦中に宦官への賄賂を拒否して罷免された盧植を復職させるが、自らも賄賂を拒み免職された。後に王允が董卓を討った際、呂布と共に郿[ビ]を攻めた。【正史】188年、董卓、陶謙、孫堅らと共に韓遂の反乱鎮圧に派遣された際、董卓の恨みを買い、董卓が政権を握ると捕らえられた。董卓の死後、太尉となる。
以上が皇甫嵩の概要である。
ポイントとなる部分はいくつかあるが、やはり没年が195年であるということだろう。
195年といえば、劉備が呂布に徐州を乗っ取られる前年であり、まだ時代が大きく動いていない頃である。
この頃に亡くなってしまったのなら、「三国志の序盤で消えてしまった」と思われるのも致し方ないかもしれない。
また、家族には度遼将軍や扶風都尉といった将軍を務めた人物が多く存在しており、武門における名門出身だったのもポイントだ。
黄巾の乱での活躍について
前述したように、皇甫嵩は黄巾の乱にて大活躍している。
実際に黄巾の乱が発生したときの彼の動き、およびその時のエピソードが多くあるのでまとめていこう。
○皇甫嵩 vs 黄巾の乱
184年3月:党錮の禁の解禁と、霊帝が所有している馬を軍に提供するように進言しこれが通る。朝廷は皇甫嵩を左中郎将に任命し、右中郎将に任命された朱儁とともに黄巾の乱の鎮圧に動く。
184年4月:黄巾の波才軍に朱儁軍が敗れるが、皇甫嵩は兵士達をうまく鼓舞し、さらに風向きを見事に計算した火計を用いて波才軍を撃破する。
184年5月:波才軍に破れた朱儁や曹操と合流する。先の戦いの功績で都郷侯に封じられる。
184年6月:西華にて彭脱率いる汝南黄巾党を撃破する。
184年8月:倉亭にて卜已率いる黄巾党を撃破し、卜已の捕縛にも成功する。
184年10月より前:張角率いる黄巾党本体と対峙するはずだった盧植が、宦官の讒言によって失脚する。さらに後任の董卓も張角に敗れる。その結果、あちこちで連勝中だった皇甫嵩が呼び戻される。
184年10月:この時点で張角はすでに病死していたようで、敵大将が張梁になる。張梁率いる黄巾党本体はそれでも強く皇甫嵩も苦戦する。しかし、夜襲や奇襲、伏兵などを巧みに用いて黄巾党を撃破する。その結果、最終的には張梁を討ち取り張角の屍を手に入れ、さらに三万人の首を取り五万人を溺死させた。その勢いのまま張宝を攻めて大勝し、黄巾党を壊滅させる。
184年10月以降:すさまじい功績をあげた皇甫嵩は左車騎将軍に任命され、さらに冀州刺史を領して槐里侯に封じられた。
このように、黄巾の乱にまつわる皇甫嵩のエピソードは大活躍しているものばかりなのだ。
また、皇甫嵩は、賄賂を断ったことで宦官に讒言されて失脚した盧植を復帰させるべく、皇帝に上奏している。
黄巾の乱後、皇甫嵩も十常侍への賄賂を断り、朱儁と共に罷免されるが、こうした逸話から十常侍(有力な宦官たち)と敵対していたことも見えてくる。
黄巾の乱後の皇甫嵩
黄巾の乱後の皇甫嵩についてもまとめていこう。
できるだけ時系列でまとめるが、詳細がわからない部分は多少ぼかしながら解説する。
○皇甫嵩の黄巾の乱後
185年:辺章・韓遂が反乱を起こしたので皇甫嵩が鎮圧に動く。しかし、賄賂拒否で十常侍と本格的に対立してまともに戦えない状態になる。後顧の憂いもあって負け戦が増えるが、それでも膠着状態を維持し続ける。しかし、左車騎将軍の印綬を取り上げられて失脚させられる。
188年:賊討伐のために皇甫嵩が左将軍に任命され、董卓を指揮下に置く。しかし、董卓の献策を全て退け正反対の策を用いたことで、董卓と敵対関係になっていく。皇甫嵩が朝廷に董卓の命令違反の事実を伝えた結果、霊帝は董卓を責めたため明確に敵対関係となる。
190年:董卓が誅殺を目的に皇甫嵩を召還する。皇甫嵩は当然周りから止められたが、そのまま召喚される。案の定投獄されて処刑されそうになる。しかし皇甫嵩の息子の皇甫堅が董卓と仲が良く、説得した結果、皇甫嵩は軍権を剥奪されたが処刑は免れる。
191年:この年に反董卓連合が結成され、董卓軍 vs 連合軍という図式になるが、皇甫嵩はどちらにも参戦せず。
192年:董卓が王允と呂布によって暗殺された後、皇甫嵩は征西将軍・車騎将軍・太尉に昇進したが、後に辞任し光禄大夫・太常となる。
195年:病を患って病死する。
産まれた年が不明なので、何歳で亡くなったのかも不明である。
辺章・韓遂の討伐戦には参加するが、そこからは十常侍や董卓など本来は味方であるはずの存在に足を引っ張られて戦果は上がらず、反董卓連合に参加することなく、195年にひっそりと病死している。
改めて年表を確認すると、まるで皇甫嵩は「黄巾の乱を鎮圧するために存在した」ような人物であった。
参考文献 : 『後漢書』『皇甫嵩伝』『山陽公載記』『漢紀』
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