戦国時代

阿部正広はなぜ切腹した? 父親を斬首した阿部掃部の悲劇 【どうする家康 外伝】

松平家(徳川家)に代々仕えた忠臣・阿部氏。

徳川家康の身代わりを務めた阿部正勝や、江戸幕末に安政の改革を行った老中・阿部正弘まで、それぞれ忠義をまっとうしています。

今回はそんな阿部氏の一人・阿部正広(あべ まさひろ)と阿部掃部(かもん)父子を紹介。

阿部正弘と同音ですが、時をはるか遡った祖先・阿部正勝の弟です。

彼もまた、家康に忠義を尽くしたのでした。

阿部氏は八田知家の子孫?ルーツは藤原?それとも安倍?

阿部正広はなぜ切腹した?

画像 : 鎌倉御家人・八田知家。菊池容斎『前賢故実』より

阿部

今の呈譜に、もとは藤原氏にして道兼の流れ八田権頭宗綱が二男小田筑後守知家が末流なり。のち姓を安倍にあらため、家號もまた阿部を称す。しかれども其由来を詳にせずといふ。

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百三十三 安倍氏 阿部

阿部氏はもともと藤原道兼の流れをくみ、鎌倉御家人・八田知家(13人合議制の一人)の子孫と言われます。

しかしいつからか安倍氏(安倍頼時・安倍貞任ら)の子孫と改め、苗字も阿部と名乗るようになりました。

詳しいことは分かっていないそうで、どういう理由で姓を変えたのかも気になるところです。

阿部正広・53歳の生涯をたどる

阿部正広は天文19年(1550年)、阿部正宣の次男として誕生しました。

母親は不明、元服して通称を善八または八右衛門と名乗ります。

兄・阿部正勝と同じく若い頃から家康に仕え、天正14年(1586年)に家康が豊臣秀吉との合戦に備えた際には使番(伝令将校)を務めました。

後に采地2,000石を賜り、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では上杉景勝討伐に従軍。ここでも使番として手柄を立てたそうです。

以降、検地奉行衆の一人として京都の政務に携わっていた阿部正広。検地奉行には正広のほか大久保長安・加藤正次・島田重次・彦坂元正・松田政行らがいました。

そんな中、慶長6年(1601年)4月18日に北野天満宮で殺人事件が起こります。

阿部正広はなぜ切腹した?

イメージ

祇官の妙蔵院禅祐が宮仕たちに斬り殺されてしまったと言うのです。

報告を受けた家康は4月21日、本多正信・大久保長安・加藤正次・彦坂元正そして阿部正広に事件の捜査を命じました。

果たして事件の真相はどうだったのか、年が明けて慶長7年(1602年)1月18日、阿部正広は「ゆへあつて(故あって)」切腹してしまいます。

その故とは何であったのか、詳しい事情については一切触れられていません。

殺人事件を捜査した後に動機不明の切腹。何だかミステリー的な香りが漂いますね。

知ってはいけない事件の真相に触れてしまったのかも知れません。

かくして53歳で世を去った阿部正広。法名は栄雲、その亡骸は京都の小川報恩寺に葬られたそうです。

父親を介錯(斬首)した阿部掃部の末路

阿部正広はなぜ切腹した?

切腹する阿部正広(イメージ)

正広

善八 八右衛門 母は某氏。

東照宮に仕へたてまつり、天正十四年豊臣太閤と有無の合戦あるべしとて三河国吉良に於て御備定のとき御使番をつとむ。のち采地二千石をたまふ。慶長五年上杉景勝御征伐のときしたがひたてまつり、関原の役には御使番をつとめて功をあらはす。七年正月十八日ゆへありて自殺す。年五十三。法名栄雲。京師小川の報恩寺に葬る。

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百三十三 安倍氏 阿部

かくして世を去った阿部正広。彼には一人息子(諸説あり)がおり、その名を阿部掃部(かもん)と呼ばれていました。

某 掃部

父切腹のとき介錯し、己も腹きつて死す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百三十三 安倍氏 阿部

掃部とは官職名であり、実名は不詳です。いつ生まれたのかは不明、切腹する父の介錯(永く苦しまないよう、とどめに斬首する役目)を務めたと伝わります。

介錯を務めるということは、父がなぜ腹を切ったのか、ある程度は事情を知っていたのでしょう。

あるいは突発的に切腹した父を見て、やむにやまれぬ対処だったのかもしれません。

「父上!」

自分を育ててくれた父親を、自らの手にかけねばならなかった阿部掃部の無念はいかばかりだったでしょうか。

介錯を済ませると、掃部は父を殺してしまった不孝を詫びるため、切腹して果てたと言うことです。

ところで、掃部を介錯してくれる人は誰かいたのでしょうか。

もし誰もいなかったのであれば、掃部は自分の腹から流れ出す血と臓物にまみれながら、数時間から十数時間にわたって悶え苦しんだはずです。

いったい何の因果で、こんな苦しみを負わねばならなかったのでしょうか。

終わりに

画像 : 老中・阿部正弘。Public domain

【阿部氏略系図】

……正俊-正宣-正広-掃部(断絶

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百三十三 安倍氏 阿部

掃部の死によって、絶えてしまった阿部正広の一家。

しかし兄・阿部正勝の血脈は後世へと受け継がれ、冒頭で紹介した徳川幕府の老中・阿部正弘を輩出したのでした。

かつて徳川家康が天下を獲った道のりは、阿部正広のような数多の忠臣たちが力を合わせて切り拓いたもの。

その感謝を忘れなかったからこそ、徳川の世が二世紀半もの永きにわたり存続したのではないでしょうか。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第4輯』国立国会図書館デジタルコレクション

 

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 本庄繁長『一度は上杉に背くも越後の鬼神と称された武将』
  2. 「ちょんまげ」の歴史について調べてみた
  3. 柴田勝家とは 〜鬼柴田と呼ばれるも温情深い猛将
  4. 戦国武将はどうやって情報を伝えていたのか? 「書状から忍者まで」…
  5. 平安時代に活躍した「陰陽師」 〜戦国時代以降どうなった?
  6. 尼子経久 ~忍者を使って城を奪い取った下剋上大名【中国三代謀将】…
  7. 東郷重位とは 【新選組も恐れた示現流の流祖】
  8. 村上武吉と村上水軍について調べてみた【海の関ヶ原】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

信長は本当に短気だったのか? 「イメージとは少し異なる人物像」

戦国の風雲児織田信長(おだのぶなが)は、天下統一へあと一歩のところまで迫った戦国時代の風…

世界的には何が流行? アメリカなど海外のスポーツについて

近年はスポーツの新しい楽しみ方とも言える「スポーツベット」が流行していることもあり、これまで…

庭の木が屋根より高くなると死人が出る? 【庭木の吉凶】

「庭の木が生い茂るのは家運繁盛の兆し」、「ハチや鳥が庭木に巣をかけるのは縁起が良い」といった言い伝え…

赤備えの井伊直政の生涯【武勇に秀でる美男子だった】

井伊直政は遠江国の井伊谷に生まれた。父は井伊直親であったが、領主だった今川氏真に謀反…

最期は自分の顔面を…公暁に仕えた稚児・駒若丸(三浦光村)の過激な生涯【鎌倉殿の13人】

建保5年(1217年)6月20日、京都での修行から鎌倉へ舞い戻った公暁(演:寛一郎)。彼は鶴岡八幡宮…

アーカイブ

PAGE TOP