昭和11年5月18日、世の男性達が身震いするような前代未聞の事件が起こった。事件発覚の2日後、容疑者として1人の女が逮捕される。
彼女の名前は阿部定(あべさだ)。
定は愛人の男を殺害後その陰部を切り取り、逮捕の日まで肌身離さず大事に持ち歩いていたのだ。
この記事では「昭和の毒婦」として知られる阿部定の生涯と彼女が起こした事件について、詳しく解説していく。
誕生から事件までの生い立ち
定は明治38年5月28日、東京市神田区新銀町(東京都千代田区神田司町2丁目と神田多町2丁目)にて、阿部重吉・カツ夫妻の末子として生まれた。実家は畳屋を営む裕福な家だった。
幼少期の定は近所でも評判の美少女だったという。周囲の大人たちから容姿をもてはやされ、年老いてから生まれた末娘ということもあって両親からも溺愛され、定は高慢で早熟な少女に育つ。
成長した定は高等小学校に進学したが、ある出来事をきっかけに不良の道へ進み学校も退学することとなる。数え年15歳の頃、近所の家で大学生とふざけているうちに強姦されてしまったのだ。
定は「純潔ではない自分はもう結婚できない」と思い詰め、やけになってしまった。高等小学校を中退し、さらに実家のもめ事から遠ざけられていた定は不良たちと外で遊びまわるようになり、挙句の果てに呆れ果てた父に芸妓として売られてしまう。
売る芸を持たない定が客を喜ばせるためには嫌々でも体を売るしかなかった。やがては自ら娼妓にまで身を落としたが、それもうまくいかなくなると遊郭から逃亡し、女中や愛人業、高級娼婦として生計を立てた。
石田吉蔵との出会い
娼妓から足抜けした後、定は自分に性依存の傾向があることを自覚して医師にも相談したが、結婚や読書を勧められるだけで適切に治療してもらえることはなかった。
昭和8年1月に母のカツが亡くなり、翌年には父・重吉も相次いで亡くなる。母の死に目にこそ会えなかったが、父が重病であるとの報せを受けた定はすぐに駆け付け、父が亡くなるまでの10日間付きっきりで看病したという。
その後、定は大宮五郎という男と出会い交際を始める。大宮は真面目かつ紳士的な男で、定が真っ当な職に就けるようにと、東京中野の料亭・吉田屋を紹介した。
その吉田屋の経営者こそが、後に定の最愛の男となる石田吉蔵だった。
石田吉蔵との不倫、そして犯行へ
吉田屋で働き始めた定と妻子ある吉蔵が不倫関係になるまでには、そう時間はかからなかった。定は吉蔵に一目惚れだったという。
やがて吉蔵の妻に定との関係を知られると、2人は駆け落ちを決行する。待合宿を転々としながら逃避行を続けた2人が最後にたどり着いたのは、東京都荒川区尾久の「満佐喜」という待合旅館だった。
定にとって、吉蔵は今までの男の中で一番だった。定が吉蔵に「誰とも良いことをしないように殺してしまおうかしら」と言えば、吉蔵は「定のためなら死んでやる」と返した。
2人でいる間はひたすら快楽を貪った。吉蔵と体を重ねる中で、定は吉蔵の首を絞めるが、吉蔵は苦しくても定が喜ぶならとその行為を受け入れた。
やがて吉蔵の持ち金が少なくなり一度家に帰る話になると、定は吉蔵と離れたくなくて子供のように駄々をこねた。それでも一時離れなければならないとなった時、定は吉蔵を殺すことを決意した。愛する吉蔵を自分だけのものにするために。
吉蔵を絞殺した後に陰部を切り取り逃亡
5月18日の午前1時頃、夢うつつの吉蔵は定に「自分が眠ったらまた(首を)絞めるだろう、絞めるなら途中で手を離すな、絞められる時はわからないが離すと苦しいから」と言った。定はそれを冗談だと思ったという。
30分ほど眠った後、定は吉蔵の首に腰紐を回し、力いっぱい絞めた。1度絞めたら吉蔵が唸ったので、もう1度絞めた。
「吉蔵が死んだことを確認した時、肩の重荷が降りたような気がして安心した」と、定は後に語っている。朝方まで息絶えた吉蔵の体に触れながら過ごしていたが、触れているうちに陰部を切り取って持っていくことを思いつく。
隠し持っていた包丁で吉蔵の陰部を切り取った後、吉蔵の左太ももと敷布団に血文字で「定吉二人キリ」と記し、吉蔵の左腕には包丁で「定」の字を刻んだ。
切り取った陰部を紙に包み、吉蔵が脱いであった下着を形見として身に着け、駆け落ち中も世話になった大宮に詫びに行くために満佐喜を後にしたのだった。
事件後
事件が発覚してから定の逮捕が公表されるまで、定と似た容姿の女性を犯人と勘違いする通報が続出し繁華街はパニックとなった。マスコミはこの衝撃的な事件を面白おかしく書き立て、世間は定のことを「妖婦」と呼んだ。
定が吉蔵を殺した理由は、金銭目的でも恨みからでもない。ただ愛する人を独占したいという気持ちが抑えられなかったからだ。陰部を切り取って持ち歩いた理由も、ただ吉蔵のそばにいたかったからだと供述している。
出所後は偽名で生活していたが、定が起こした事件は世間から忘れられることはなかった。定本人も自分の正体が世間に知れてから映画や見世物で事件の話を語ることもあったが、昭和46年に置手紙を残して失踪してからの行方ははっきりしていない。
しかし昭和62年頃まで、吉蔵の永代供養をしていた寺には毎年5月18日に送り主不明の花が届いていた。これは定によって送られていたのではないかと考えられている。
仮に定が今も生きているとしたら110歳を余裕で超える年齢だ。おそらくはもう鬼籍に入っているだろう。定がすべてを自分のものにしたいほど愛した吉蔵とあの世で再会できたかどうかは、誰も知る由が無い。
参考文献
・阿部定年譜(予審訊問調書による)/中澤千磨夫
・阿部定正伝/堀ノ内雅一
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