関ヶ原の戦いから10年後の慶長20年(1615年)5月に大坂城が落城し、豊臣秀頼と淀殿が自害、豊臣家が滅亡し戦国時代は終わりを告げた。
大坂城落城後、天下人である徳川家康はその足で急いで京都の二条城に入り、徳川の世のためとなる各種諸法度をわずかな期間で作り上げ、将軍・秀忠の名で発布した。
大坂夏の陣から12か月後、家康は75歳の生涯を閉じる。
家康は、このたった12か月という短い期間で、徳川の世が長く続く仕組みを作るために、今でいう「終活」を実行した。
各種の法度、将軍の後継者問題、そして家康を最も悩ました人生最後の大きな決断を行なっている。
今回は、天下人・家康の終活と人生最後の決断について、前編と後編にわたって紹介したい。
大坂夏の陣後
慶長20年(1615年)5月8日、大坂城が落城し豊臣秀頼が自害したことを知ると、家康はすぐに京都の二条城に向かった。
夜遅くに二条城に入った家康は、すぐに戦後処理を始めた。
5月10日には、諸大名に引見し、真田幸村(信繁)の軍を撃破した孫・松平忠直らを褒め称えたという。
諸大名たちは国許に帰さずに、京都の伏見城などへ留め置いた。
当然、諸大名らは大坂の陣の論功行賞・恩賞が貰えるものだと思い、そのまま京都に留まった。
6日後の5月16日、家康は公家衆や仏教各宗派の僧侶たちと会見する。
6月2日、豊臣家の金銀財宝が届くと、家康は6月15日に御所に参内して朝廷に銀を進上している。
家康は多忙を極める日々の中で、着々と新たな時代のための法度(法令作り)の作成を進めていた。
実は、大坂冬の陣が始まる前年に、家康の僧侶ブレーンである金地院崇伝に、武家・公家・諸門跡の膨大な資料を集めさせていた。
大坂夏の陣後の2か月間は、それらの資料をもとに作られた法案を吟味する時間にあてたのである。
崇伝は法案を家康に文面として見せるのではなく、読み聞かせた。
崇伝の説明を受け、家康が疑問を投げかける。
まるで禅問答のようなやり取りが何度も行われたという。
そして大坂夏の陣からおよそ3か月後、将軍・秀忠の名で次々と新たな法令が矢継ぎ早に発布されていくのである。
各種諸法度の発布
一国一城令
最初に出されたのが閏6月13日の「一国一城令」である。大名は領国に城を一つしか持ってはならないとされた。
この法令は、西国の池田・福島・毛利・黒田・細川・鍋島・島津・山内ら、有力な外様大名の軍事力削減が大きな狙いであった。
豊前小倉藩主・細川忠興の場合、領国内の城の破却にただちに着手したことを二条城にいた息子にすぐに伝え、そのことを家康の側近にすぐに報告するように指示したという。
しかも、細川が破却した城の数は7つであった。
小倉城と、息子が藩主になる予定の中津城以外の城を全て破却したのである。
このように、一国一城令を発布したわずか数日のうちに、なんと全国で400以上の城が破却されたという。
武家諸法度
7月17日には、「武家諸法度」を発布する。
これは大名を統制する13か条なる法令で、特にその第六条では「城を修復・改築する際は必ず幕府に届け出を出すことと、新たな城を築くことは禁止」とされている。
これは大名たちの武力を徹底して削減すると共に、法令を守らない大名を処罰することで、幕府の権威を高める仕組みとなっていた。
この家康の狙いにまんまとはまってしまった大名が、安芸広島藩主・福島正則である。
福島正則は洪水で破損した石垣を修理しただけだったのだが、幕府に届け出がなかったために許可なく城の改築をしたとして改易(取り潰し)となってしまったのである。
この事件は、家康の死から3年後のことであった。(※福島家は届け出をしたが幕府によって嵌められたという説もある)
武家諸法度の発布から、三代将軍・家光までの間に改易となった大名は、なんと外様51家、親藩・譜代でも34家となっている。
幕府は法の権威を高めることで、その支配を確実なものとしたのだ。
禁中並公家諸法度
7月17日には、「禁中並公家諸法度」を発布。
17条から成る中で1~12条が皇室及び公家が厳守すべき諸規定で、13条以下が僧の官位についての諸規定となっている。
特に第1条は「天子が治めるべきものは第一に学問である」とされ、これは天皇の政治関与を禁じた規定だとされている。
第7条には「武家の官位は、公家の官職とは違別のものとする」という規定がある。
これは武家の序列の証である朝廷の官位を、将軍が自由に任命することができることを意味している。
実は諸大名の序列は、石高ではなく官位であった。
幾ら石高が多くても官位が低いと下座に置かれる。
その為、諸大名はどうあっても高い官位が欲しくなるのだ。
武家諸法度で厳しく大名の行動を統制するのがムチならば、飴にあたるのが官位で、その利用価値を家康は見抜いていたのである。
諸宗寺院法度
7月24日には、「諸宗寺院法度」を発布。
これは、仏教の宗派ごとに本寺と末寺という制度を設け、本山である本寺が末寺を統制する仕組みを作り上げ、その本山を幕府が管理するというものである。
家康はかつて、宗教勢力に散々苦しめられた経験から、宗教勢力を徹底的に封じ込めようとしたのである。
こうして大名・朝廷・宗教を徹底的に統制するルール(法令)を作り終えた家康は、8月4日に京都を出て、8月23日に駿府城へ戻った。
家康は「大坂城落城後の数日から数か月が一番徳川の力を見せられる」と判断し、一気に法度を発布したのだ。
京都に留め置かれ、恩賞や論功行賞が貰えると思っていた諸大名らは、まさかの法度という厳しい法令が待っていた。
それまで戦国大名たちは、自分たちの家独自の法・家法を持って統治していた。
家康は全国の大名たちの家法を崇伝に集めさせて研究し、戦のない国作りの根幹となる法令を作り上げたのだ。
一番懸念することは、力のある外様大名が天皇と一緒になり、または親戚になって天皇の権威を利用することであった。
家康の凄いところは、ルールで天皇・朝廷を統制し、もし天皇と外様大名がつながっても「天皇にはその権威がもうない」ということを明らかにした点である。
後編では、家康が「終活」として行なった、将軍の後継者問題について触れていきたい。
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