宝暦治水事件とは
宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん)は、江戸時代中期の宝暦年間に発生した悲劇的な出来事である。
この事件は、幕府の命令により薩摩藩が実施した木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事中に発生したもので、工事に従事した薩摩藩士の多くが命を落とす結果となった。
この治水工事において、薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、指揮を執っていた家老の平田靭負(ひらたゆきえ)も自害したと伝えられている。(※自害者の数は51~54名など諸説あり)
なぜ治水工事において事故死ではなく、自害や病死者がこれほどの人数になったのだろうか?
その原因は、工事中に幕府の担当者からの嫌がらせが頻発し、これに抗議するために切腹する薩摩藩士が続出したからである。また、劣悪な環境の中で赤痢が蔓延し、157名が病に倒れ、そのうち33名が病死した。
平田靭負は、藩が取り潰される可能性を考慮して、自害の事実を幕府に報告しなかった。工事が完了した直後、彼は工事中の出来事を国許に報告し、その翌日に責任を取って自害した。
彼は「薩摩藩士の鑑」として称えられ、現在では鹿児島の小学校の道徳の副読本にも掲載されている。なお、彼の死因については病死説も存在する。
今回は「宝暦治水事件」の悲劇・薩摩藩士と家老・平田靭負について解説する。
平田靭負とは
平田靭負(ひらたゆきえ)は、宝永元年(1704年)に薩摩藩士の父・平田正房と島津家分家の娘との間に生まれた。
諱は「宗武」、後に「正輔」へ改名し、通称は「次郎兵衛」、「新左衛門」、「掃部」などがあるが、ここでは一般的に知られる「平田靭負」または「靭負」と記させていただく。
靭負は正徳2年(1712年)に藩主・島津吉貴の加冠を受けて元服し、「兵十郎」に改名。享保2年(1717年)に将軍・徳川吉宗の諱を避け、「正輔」に改名した。
享保4年(1719年)には物頭に就任し、享保20年(1735年)に家督を相続。日向国諸県郡馬関郷地頭を兼任した。
その後、「御用人」や大目付を歴任し、延享5年(1748年)に藩主・島津宗信から家老に任じられた。
寛延元年(1748年)には江戸の薩摩藩邸に入り、藩主の帰藩後は江戸留守家老となった。
宝暦治水
木曽川・長良川・揖斐川の「木曽三川」は、岐阜県の濃尾平野を貫流し、複雑に合流・分流を繰り返す地形である。
また、小領が分立する美濃国では、各領主の利害が対立していた。
統一的な治水対策をとることが難しかったこともあり、洪水が多発していたのである。
しかも「御三家・尾張藩の御囲堤よりも3尺(約91cm)以上、低く造らなくてはいけない」とされていた。(※伝承であり真偽は定かではない)
享保20年(1735年)、美濃の郡代・井沢為永が川の調査を行い、分流工事を提案したが、幕府は財政難から許可しなかった。その後、延享4年(1747年)に二本松藩主・丹羽高庸に対し、井沢の案を縮小した形で治水工事を命じたが、効果は限定的であった。
時が経ち、三河川の流域では土砂の堆積や新田開発が進み、洪水被害はさらに悪化した。
薩摩藩の苦しい財政
宝暦3年(1753年)、9代将軍・徳川家重は「幕府に内緒で密貿易を行い、不当に利益を得ている」として、薩摩藩主・島津重年に対し、手伝普請の形で三河川の普請工事を命じた。
この普請は、幕府の指揮下で薩摩藩が資金と人手を提供するものであったが、幕府は流域の村から人足を動員し、賃金を支払う「村請」による工事を指示した。
薩摩藩は、この方法では費用がかさむとして、直接町人を雇う「町請」に変更したいと申し出た。しかし、幕府は賃金が村民への支援となり、地元の村の工事に対する関心を高め、計画以上の成果が期待できるとして、「村請」での実施を厳命した。
つまり薩摩藩は、他所から連れて来たプロの人足や大工を雇えず、地元の素人の人足や大工を高額で雇わねばならなかった。
薩摩藩は密貿易で幕府から資金を得ていたと疑われていたが、実際には66万両もの借入金を抱えており、財政は逼迫していた。
工事普請の知らせを受け、薩摩藩内では「一戦交えるべきだ!」との強硬論が続出した。しかし、財政担当の家老であった靭負は強硬論を抑え、薩摩藩は宝暦4年(1754年)に請書を幕府に提出した。
同年1月29日、総奉行の靭負と副奉行の伊集院十蔵は、それぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。
派遣された薩摩藩士は総勢947名であった。
2月16日に大坂に到着した靭負は、工事に必要な資金調達を行い、薩摩の特産品である砂糖を担保に7万両を借入れた。そして、2月27日に着工されたのである。
工事の困難と幕府の嫌がらせ
工事は二期に分けられ、第一期は水害によって破壊された堤防などの復旧、第二期は輪中地区の南部を四つの工区に分けて行われた。
河川工学や土木工学が未発達だったこともあり、いずれの工事も困難を極めた。
また、前述したように地元住民を労働に充てて救済する目的もあり、通常の人足や大工よりも割高な賃金を、工事経験のない地元住民に支払うことを余儀なくされた。
靭負は何度もプロの人足や大工の雇用を幕府に願い出たが、すべて拒否された。さらに、工事が進行中に水害が発生し、工事済みの部分が破壊されることもあった。
また、設計が途中で変更されることがしばしばあった。このため、当初予想された工事費よりも多額の費用が必要となってしまった。
抗議の犠牲者
宝暦4年(1754年)4月14日、薩摩藩士の永吉惣兵衛と音方貞淵の2名が自害した。
彼らが管理していた現場で3度に渡り堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることが分かり、その嫌がらせに対する抗議が目的の自害であった。
その後、抗議の自害は合わせて51名にまで増えたが、靭負は幕府への抗議と疑われることを恐れ、また割腹が藩の取り潰しにつながる可能性があったため、自害である旨を届けなかった。
さらに、人柱として薩摩藩士1名が殺害されるという悲劇も起こった。
そのうえ幕府は、村役人が薩摩藩の普請役人を饗応する際の食事は「一汁一菜」と規制し、蓑や草履までも安価で売らぬようにと地元農民に指示していた。
ただしこれは経費削減の観点から、当時の普請役人への応接としては珍しいことではなかった。
赤痢の流行
同年8月、薩摩の工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が低下していた多くの者が倒れた。
結果として157名が病にかかり、そのうち33名が病死した。
宝暦5年(1755年)5月22日、ついに工事が完了し、幕府の検査を終えた。
その後、5月24日に総奉行であった靭負は工事の完了を藩に報告したが、翌日の5月25日、美濃大牧の本小屋(大牧薩摩工事役館跡)で割腹自殺を遂げた。
靭負は藩への多額な負担の責任を取って自害したとされるが、病気で亡くなったとの記録もあり、真相は定かではない。
最終的に薩摩藩が工事に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上)に上り、大坂の商人から22万298両を借入れていた。その返済は薩摩領内の税で賄われ、特に奄美大島のサトウキビ栽培が収入源として重視された。
奄美の住民はサトウキビ栽培を強制され、収奪されたため、「黒糖地獄」と呼ばれるようになった。
工事の成果と問題
この河川工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。
しかし、長良川上流域では逆に洪水が増加する問題が生じた。完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促進し、洪水の頻発を招いたと指摘されている。
薩摩藩では治水事業が終了した後も管理のために現地に代官を派遣したが、彼らは後に尾張藩に組み込まれたという。
おわりに
最終的に薩摩藩士は50名以上が自害し、33名が病死するという大きな犠牲を出した。
この「宝暦治水事件」の悲劇は、幕府との関係や幕末の激動などに埋もれ、大正時代まで地元の鹿児島ではほとんど知られていなかった。
しかし、現在では「忠義の男」として平田靭負の知名度は高くなっている。
この事件は、薩摩藩の誇りと忍耐、そして献身の象徴として語り継がれているのである。
参考 : 『宝暦治水伝 波闘』『木曽三川流域治水史をめぐる諸問題』
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