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不倫相手との交際のために自分の子ども3人を銃撃した母親
1983年5月19日、オレゴン州スプリングフィールドで、ダイアン・ダウンズという当時27歳のアメリカ人女性と、3人の子どもたちが面識のない男に銃撃される事件が起こった。
左腕を撃たれた母親のダイアンは一命をとりとめたが、彼女の子どもである8歳の長女クリスティは脳卒中の重体、7歳の次女シェリルは死亡、3歳の長男ダニエルは下半身麻痺の重傷に。
ダイアンは警察の事情聴取に対し、
「友人の家からの車での帰り道、道路の真ん中で20代後半のもしゃもしゃ頭の男に車を止められ、車のキーを渡せと脅迫された。
拒否すると口論になり、私は銃で撃たれた。
彼は車のドアを開けて3人の子どもたちも撃ち、私は男を振り切って急いで病院に向かった。」
と事件当時の状況を説明した。
ところが、左腕を撃たれたダイアンの運転席の血痕が彼女の証言と一致しなかったこと、運転席のドアの外側に火薬残留物がなかったことが警察の現場検証で発覚。
さらに、病院職員たちからは
「子どもたちが瀕死状態にも関わらず、彼女は自分の車に弾の穴が開いていないか心配しており、ショッキングな事件の被害者にしては穏やかすぎると感じた。」
と証言され、疑惑の目はダイアンに向けられるようになる。
やがて警察は、犯人のものであるはずの22口径の銃をダイアンが所持していたことを突き止める。
そして、決定的な証拠が脳卒中で重体だった長女、クリスティからもたらされることになる。
事件直後、クリスティは意識不明で生死の境をさまよっていたが、母のダイアンが集中治療室に見舞いに訪れると、彼女の心拍数の数値が上昇。
意識を取り戻した後も、母親を見ると恐怖で怯えたという。
クリスティはショック状態で会話が困難になっていたが、数ヶ月で回復すると、見知らぬ男など存在しないこと、母親が3人の子どもを撃ち、その後自分の左腕を撃ったことを証言した。
不倫相手の子どもを欲しがるも 男性4人とも関係を持つ
その数ヶ月前、ダイアンの不倫相手だったロバート・ニッカーボッカーは、事件関係者として警察署に出頭していた。
ロバートは、
「ダイアンと不倫関係にあったが、最近は彼女の執拗さ(現代でいうストーカー行為)に悩まされていた。」
と語った。
2人は事件の2年前、ダイアンの父が局長を務める郵便局でロバートが働いていたことがきっかけで出会った。
ダイアンは当時、1万ドルの報酬を受け取る条件で代理母となり妊娠中であった。
2人は親密になり、ダイアンの代理母出産後、不倫関係になるが、ロバートは最初から遊びのつもりで妻と別れる気はないと告げていたという。
しかし、2人の関係に夢中になっていたダイアンは納得せず、次第に愛情表現が過激になっていった。
ロバートは、
「ダイアンは私との子どもを欲しがったが、私はもともと子どもを望んでいなかったので、21歳の頃にパイプカット手術を受け、妻とのあいだにも子どもはいない。
父親にはなりたくない、別れようとダイアンに告げていた。
ダイアンは激昂して自宅に押しかけ、自分と妻のどちらを愛しているのか、問い詰められた。
さらに、ダイアンは代理母出産を終えてからも私以外の4人の男性と関係を持ち性病に感染していたうえ、私を独り占めできるなら妻を殺すつもりのようだった。」
と警察に語った。
ロバートの妻であるノラ・ニッカーボッカーも、ダイアンが家のドアを一晩中叩き続け、応じないでいると電話を鳴らし続けて執拗に攻撃するようになったと証言している。
ダイアンは、ロバートとの別れを受け入れられず、彼の意向を汲むために自らの子どもたちの殺害を計画したのではないかと警察は考察した。
自殺願望を抱えた5歳の娘と、3人の実子殺害を目論む母親
撃たれた3人の子どもの父親であり、7年間の結婚生活の末、離婚していたダイアンの元夫、スティーブ・ダウンズも警察から事情聴取を受けていた。
スティーブによると、ダイアンは子どもを愛せなかったという。
ダイアンは、子どもたちを自分の両親とスティーブに頻繁に預け、ベビーシッターを手配できない時は、当時6歳の長女クリスティに2人の子守りを任せていたという。
近所の住人たちも、子どもたちの服装が季節と合っていないこと、空腹でよく食べ物を求められたことなど、ネグレクト(育児放棄)の懸念を証言した。
スティーブは警察に、
「赤ちゃんだった息子のダニエルがかまって欲しいと泣いても拒絶するなど、ダイアンは子どもたちにすべてを禁じていた。
衝撃だったのは、当時5歳のシェリルがベッドで飛び跳ねるのを私がやめるよう注意した時。
彼女は穏やかな表情で『この家に銃はある?』と聞いてきた。
理由を尋ねると、シェリルは『私は私を殺したいの。お母さんが私は悪い子だと言ったから』と言い、私はショックを受けた。」
と話している。
スティーブはダイアンとの婚姻時代、経済的な問題でよくケンカをしていたが、ダイアンの不倫と妊娠が発覚し、1980年に離婚。
息子ダニエルは、不倫相手とのあいだにできた子どもだったのだ。
ダイアンはのちの自身の裁判で、
「私は愛のためにスティーブと結婚したわけではない。両親から離れるためだった。」
と語っている。
すべての元凶は厳格な父親からの性的虐待か?
ダイアンは、1955年8月7日、アリゾナ州フェニックスで生まれ、厳格で保守的、権力的かつ懲戒的であった父親と、夫のパワハラ・モラハラに思い悩みながらも寡黙な母親に育てられた。
ダイアンは両親からファッションやメイクを禁じられたため、同級生からいじめに遭ったこともあったといい、抑圧されて育ったことを裁判で証言している。
両親からの抑圧に耐えられなくなったダイアンは、高校卒業後、実家を離れるためカリフォルニア州の大学に入学。
しかし、複数の相手と同時に性的行為をしたことで1年後に退学となり、アリゾナ州の実家に戻ることになってしまう。
彼女は両親との関係について、
「父と母は多くの時間を過ごしていたが、母は私と一緒に過ごしてくれなかった。」
と裁判で語っており、彼女を診察した臨床心理士は、典型的な愛着障害であると証言している。
「愛着障害」とは、乳幼児期に母親や父親など特定の養育者との愛着形成がうまく築けなかったため、大人になってからも人間関係に問題を抱えてしまう障害である。
乳幼児期の子どもは自分の欲求や感情を効果的に伝えることができないため、未熟な者に育てられると、空腹、睡眠、排泄の三大欲求において十分なケアや教育がされず満たされないまま肉体が発育してしまう。
その結果、自己肯定感や自己価値感、自己受容感が未発達となり、精神的に不安定な大人になる。
人間関係において無意識に過度に依存的になったり、拒絶される恐怖を感じやすく、結果的に問題行動を起こすことに繋がるといわれている。
警察による捜査でダイアンの自宅から押収された日記には、不倫相手のロバートへの執着と子どもたちを殺すための動機が詳細に記されていた。
ダイアンは、自分が愛されているか不確かだったため、複数の男性と性的関係を持ったり不倫をしたり、子どもを出産することで、愛されているという証拠や実感を求めていたと考えられている。
また、ダイアンは12歳まで父親から性的虐待を受けていたと裁判で証言。
父親は家族との団欒を終えると、ダイアンに「家族の時間」と称し、娘の心身を深く傷つける行為を行っていたというのだ。
ダイアンは事件から9ヶ月後に逮捕された際、妊娠していたが、父親はわかっていない。
彼女の弁護士であるジム・ジャガーも、事件そのものや事件後の彼女の放蕩行動の原因として、幼少期の父親による性的虐待のトラウマを指摘した。
しかし、ジムはのちにその主張を撤回し、両親も否定している。
ダイアンを精神鑑定した精神科医は、彼女を「ナルシスト性パーソナリティ障害」「演技性パーソナリティ障害」「反社会性パーソナリティ障害」と診断し、メディアや社会からは「逸脱した社会病質者」とレッテルを貼られた。
懲役50年、収監から3年で脱獄するも10日で逮捕
警察による慎重な捜査の末、1984年2月28日に逮捕されたダイアンは、殺人罪、殺人未遂罪で起訴された。
ダイアンは当時の取り調べで
「不倫相手のロバートとの交際を続けるために、子どもたちを撃った。」
と犯行を自供した。
それから4ヶ月後、彼女は有罪判決を受け、懲役50年を宣告された。
ダイアンはオレゴン州の女性矯正センター(刑務所)に収監されたが、3年後に5,5mの金網を乗り越えて独房から脱獄。
警察は14州にまたがる懸命な捜索の末、10日後にダイアンを逮捕した。
幼少期のダイアンへの性的虐待を否定していた父親は、娘の無実を信じ、ダイアンを刑務所から釈放するに値する情報や証拠を提示した人に、10万ドルを提供するウェブサイトを運営している。
生き延びた3人の子どもたちのその後の人生
ダイアンは逮捕時に妊娠していた父親不明の子どもを刑務所内で出産。
誕生した女児はオリゴン州によって保護され、良識ある夫婦の養子となり、「レベッカ」と命名された。
成人したレベッカは、ABCの番組『20/20 Blood Ties (血縁)』にダイアンの実娘として出演。
11歳のときに事件のことを知ったというレベッカは、母親のことをどう思っているかインタビューされると、
「怪物。子どもの頃、刑務所にいる母親に手紙を出したことを後悔している。」
と答えた。
さらにレベッカは2020年、実の父親を見つけるため、ポッドキャスト『ハッピーフェイス・シーズン2』に出演している。
母親であるダイアンに銃で撃たれた2人の子ども、当時8歳だったクリスティと3歳だったダニエルは、事件から3年後、担当主任検察官だったフレッド・ヒューギとその妻の養子となった。
現在40代になった2人は、プライバシーを保護されながら静かに暮らしているという。
仮釈放公聴会で変化しつづけるダイアンの主張
2008年、仮釈放公聴会が迫る中、ダイアンは
「私は何十年にもわたって、男が私と子どもを撃ったと言い続けてきた。私は自分の話を変えたことはない。」
と無罪を主張し、メディアを騒がせた。
ところが、ダイアンの主張のディテールは、
「私と子どもたちを銃撃したのは2人の男だった」「彼らは麻薬販売業者だ」「彼らは薬物流通に関わる腐った警察官だ」
と当初の証言から少しずつ変化していったといい、彼女の精神状態が危惧され、仮釈放は却下された。
その後も2回、仮釈放聴聞会が開かれ、再び無罪を主張するも棄却されている。
ダイアンは、現在もカリフォルニア州矯正・リハビリテーション局管轄、バレー州立刑務所で服役中である。
バレー州立刑務所内には2023年、「Freedom Library」という空間が開設された。
そこには良質な木材で手作りされた曲線の本棚が設置され、厳選された500冊の本が並べられている。
人間が本来備えている好奇心として本を自然に手に取れる環境を作り、受刑者たちを励ますことが目的の試みだという。
2024年、69歳になるダイアン・ダウンズは、刑務所内の本棚からどのような本を選んでいるのだろうか。
参考文献 : Ann Rule著『Small Sacrifice』
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