藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の次男として706年に生まれた。
743年、37歳にて橘諸兄(たちばなもろえ)政権下で従四位上参議となり、公卿となる。
746年、仲麻呂は式部卿(しきぶきょう)に就くと、自身の立ち位置を強固にしていった。
式部省は、国の機関で働く者の採用や考課を管理する人事の部署で、式部卿はその部署の最高位の官職である。
仲麻呂は式部卿の権限で、自分にとって都合の良い人事を行ったのである。
大幅な人事異動を行うことで、橘諸兄の勢力を削ぎ、自らの派閥を作っていった。
このように権力の中枢に入った仲麻呂であるが、そこから12年で公卿の頂点に上り詰めるものの、4年後には反乱を起こし滅ぼされてしまうのである。
公卿の頂点にまで上り詰めた藤原仲麻呂は、なぜ乱を起こしたのだろうか?
今回は、仲麻呂を取り巻く人間関係と「藤原仲麻呂の乱」に至った経緯を分かりやすく解説する。
天皇家と藤原仲麻呂の関係性
藤原仲麻呂は、藤原武智麻呂の子、つまり藤原不比等(ふじわらのふひと)の孫であることから、聖武天皇(しょうむてんのう)の従兄弟にあたり、皇后である光明皇后(こうみょうこうごう)とも甥の関係に当たる。
そのことから天皇の子であった阿倍内親王(あべのないしんのう)とも、関係は良好であった。
749年に聖武天皇からの譲位で、安倍内親王が孝謙天皇(こうけんてんのう)として即位する。
この際、仲麻呂は参議から中納言を経ずに大納言へと昇進した。
同年、皇后の家政機関であった皇后宮職が紫微中台(しびちゅうだい)と改名されると、大納言に昇進したばかりの仲麻呂が、長官に当たる紫微令に就任した。
孝謙天皇が即位した当時、聖武天皇の体調が優れなかったことから、光明皇太后が政治を後見する立場を取っていたが、実際のところは紫微中台が光明皇太后に代わり、政治を主導するようになっていった。
また、仲麻呂は天皇の親衛隊を司る中衛府における最高位の中衛大将も兼務することになる。
これにより、仲麻呂は政治と軍事の両面における権力を掌握することになった。
左大臣であった橘諸兄の権力まで圧倒し、橘諸兄体制から事実上の光明皇后・仲麻呂体制が確立されたのである。
聖武天皇の崩御と橘奈良麻呂の乱
756年、左大臣の橘諸兄は「朝廷を誹謗した」という密告を受け左大臣を辞任する。聖武上皇は誹謗したことについては許したものの、諸兄は恥じとして辞任したのである。
同年、聖武上皇が崩御する。
聖武上皇の遺言により、天武天皇の孫である道祖王(ふなどおう)が孝謙天皇の皇太子となった。
しかし、喪中の中での不徳な行動が問題視され、皇太子を廃される。
代わりに仲麻呂が推挙した大炊王(おおいおう)が立太子された。
この動きに不満を持ったのが、橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)であった。
奈良麻呂は、孝謙天皇が即位した際に参議に昇進していた。
奈良麻呂は、同じく参議に昇進していた大伴古麻呂(おおとものこまろ)と共に、仲麻呂を殺害し別の天武天皇の孫である皇族を皇太子として擁立する反乱を計画する。
しかし、すぐに企てが露見してしまい、奈良麻呂一味は捕えられてしまったのである。
この時に藤原仲麻呂の兄であり、右大臣であった藤原豊成(ふじわらのとよなり)は、右大臣として謀反計画の上奏に対して対策を講じなかったという政治的なミスを指摘され、大臣職を剥奪される。
これにより、藤原仲麻呂は太政官のトップとなり、最高権力者となったのである。
淳仁天皇即位~孝謙上皇との確執
758年、孝謙天皇は皇太子であった大炊王に譲位し、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が即位する。
淳仁天皇は仲麻呂の亡くなった長男の未亡人を妃とし、仲麻呂の私邸に身を寄せていたことから、仲麻呂とは仲が良く、むしろ仲麻呂には頭が上がらない立場であった。
そのため、淳仁天皇として即位したものの、仲麻呂の傀儡状態となったのである。
760年、仲麻呂は皇族以外で初めての太政大臣に任じられる。
この時が仲麻呂の権力のピークであった。
仲麻呂が太政大臣に就いた同年、光明皇太后が崩御する。
これは皇太后との結びつきが強かった仲麻呂にとって、非常に大きな打撃であった。
762年になると、仲麻呂と孝謙上皇とのパイプ役になっていた仲麻呂の正室・藤原宇比良古(ふじわらのおひらこ)が亡くなり、同年、仲麻呂の腹心であった参議・紀飯麻呂(きのいいまろ)と、中納言・石川年足(いしかわのとしたり)が相次いで死去。
こうして政治基盤が弱体化していったことで、仲麻呂は近親者4名を参議に任じて政権の補強を行った。
しかし、このことが仲麻呂政権の反対派に油を注ぐこととなった。
この頃、孝謙上皇は病気がちになっていた。
この看病にあたったのが道鏡(どうきょう)という僧であった。
孝謙上皇は病気が完治すると道鏡を寵愛するようになっていった。
仲麻呂は淳仁天皇を介して何度も諌めたが、これが孝謙上皇の怒りを買い、淳仁天皇・仲麻呂 vs 孝謙上皇・道鏡として対立が深まっていくのである。
藤原仲麻呂の乱
対立に危機感を感じていた仲麻呂は、軍事力をもって孝謙上皇と道鏡の排除に動こうとする。
764年、『都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使』という役職に自ら就任し、軍事力のさらなる掌握を図った。
その陰で上皇側には謀反の密告が入り、先手を取って仲麻呂の動きを封じにかかった。
孝謙上皇は仲麻呂の役職、姓を剥奪することで身動きを取れなくしたのである。
これにより、仲麻呂は平城京を脱し、息子が国司を務めていた越前国を目指すが、すでに関所には官軍が入っており越前に向かうことはできなかった。
琵琶湖沿いに引き返すものの、高島郡(現在の滋賀県高島市)の三尾で捕まり、仲麻呂は処刑された。
軍事力を掌握したわずか1週間後の出来事であり、あっけない最期であった。
藤原仲麻呂の乱が起こった原因は、男女関係を咎められたことによる亀裂?
ここまで藤原仲麻呂の視点で、藤原仲麻呂の乱が起こるまでの経緯を解説した。
結局のところ、孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂のグループ間での修復しきれない亀裂が原因であった。
亀裂が入った原因は、病気の平癒後も孝謙上皇の元に通う道鏡について、仲麻呂が咎めたことである。
その怒りの背景には、孝謙上皇の中に、生涯結婚することが許されなかった女性天皇という立場や、自身の生まれに対しての不満があったのではないだろうか。
藤原の血脈に対する怒りが藤原仲麻呂に降りかかり、仲麻呂は巻き込まれてしまった形になったとも推測できる。これが藤原仲麻呂の乱の真相ではないだろうか。
当事者亡き太古の時代の出来事なので真相は闇の中だが、史実から想像を膨らませてみるのも面白いものである。
参考 : いっきに学び直す日本史
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