764年、藤原仲麻呂の乱を抑えた孝謙太上天皇は、第47代・淳仁(じゅんにん)天皇が藤原仲麻呂と関係が深かったことを理由に、廃位を宣告した。
※藤原仲麻呂の乱については
https://kusanomido.com/study/history/japan/nara/79415/
廃位となった淳仁天皇は、譲位した天皇に追号されていた太上天皇とはされず親王の待遇とされ、淡路島へと流罪となった。
淳仁天皇の代わりには、孝謙太上天皇が皇位に再び付き、第48代・称徳天皇として即位した。
称徳天皇が即位すると、太政大臣であった藤原仲麻呂のポストに、僧侶の道鏡を太政大臣禅師として任命した。
これにより、道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)をはじめ、道鏡に縁のある者は次々と高い地位に就いていくのである。
さらに翌年に道鏡は、宗教上において天皇より身分が高い「法王」という地位を与えられる。
これにより、道鏡は称徳天皇とともに仏教中心の政治を進めていったのである。
皇室を揺るがす大事件! 「宇佐八幡宮神託事件」とは
769年、道鏡の弟である弓削浄人と、大宰主神(だざいのかんづかさ)であった中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」という神託が宇佐八幡宮からあったと、称徳天皇に奏上した。
これを聞いた道鏡は自ら天皇になりたいと望み、称徳天皇は寵愛していた道鏡にそのような神託が下りたことをとても喜んだという。
そこで、宇佐八幡宮を深く崇拝していた称徳天皇は、側近の尼僧であった和気広虫(わけのひろむし)を宇佐八幡宮への勅使とし、神託の真偽を確かめようとした。
しかし、和気広虫は病気がちで長旅が無理そうであったことから、弟の和気清麻呂(わけの きよまろ)が代行となった。
和気清麻呂は宇佐八幡宮で、
「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし」
簡単に言えば、「皇位は皇族が継ぐもので、皇族でない道鏡は早く排除するべき」という神託を受けた。
朝廷に神託を持ち帰った和気清麻呂は、称徳天皇と道鏡からの怒りを買い、別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と強制改名させられてしまう。
そのうえ、平城京への入京を禁止され、九州の大隅国(おおすみのくに)へ流されてしまったのである。
和気清麻呂が大隅国への異動中に、道鏡は追手を放ち、暗殺を試みた。
しかし、急に雷雨が巻き起こり、暗殺の実行は阻止されたと云われている。
こうして和気清麻呂は自身を盾にして、道鏡が天皇になることを阻止したのだ。
この事件の翌年には称徳天皇が崩御し、天智天皇の孫である白壁王が第49代・光仁天皇として即位したことにより、道鏡の野望は潰えたのである。
宇佐八幡宮神託事件はなぜ起こった?
この宇佐八幡宮神託事件では、一つ目の神託を道鏡の実弟である弓削浄人と、中臣習宜阿曾麻呂が奏上している。
しかし、最初の神託は、道鏡が実弟や自分の息がかかった配下の人間を利用し、女帝を惑わし欺いて皇位を狙い、嘘の神託を奏上させたものだと云われている。
道鏡は太政官の最高位である太政大臣に就き、法王という身分も与えられていたことから、天皇の皇位も狙ったのだろう。
そのような道鏡に和気清麻呂は立ち向かい「道鏡に皇位継承してはいけない」という神託を以って、道鏡の野望を阻止したのである。
宇佐八幡宮神託事件の真相
宇佐八幡宮神託事件から1250年の月日が経った今、新たな史料でも見つからない限り、当時の真相を知るすべはない。
江戸時代には、この事件や道鏡について庶民の間でも面白おかしく話されており、道鏡は「完全な悪者」とされてしまっていた。
だが、和気清麻呂が神託を持ち帰った後の動きからも、本当に道鏡と称徳天皇が企んだものだったのかは定かではないのだ。
和気清麻呂が処分された後、称徳天皇が1つめの神託に従い、すぐに道鏡を皇位に付ける動きを取ったかといえば、そのような記録はない。
また、称徳天皇が崩御したあと、道鏡は法王の身分などをはく奪され、下野国(しもつけのくに)の下野薬師寺の別当として流される処分を受けたが、重罪者として死罪になることもなかった。
皇統でない者が皇位に就くということは、皇室が消滅する危機である。
そのような大罪を犯した者が、左遷で済んだということは、この事件の一部、もしくは事件そのものが後付けで作られた可能性も考えられるのだ。
・道鏡と称徳天皇が企み、偽の神託を造った説
・道鏡に近い貴族が、道鏡や寵愛している称徳天皇を喜ばせるために神託を造った説
・称徳天皇が道鏡を天皇にしたかったことから、神託を造らせた説
など、現在に残る史料からさまざまな説が考察されている。
はっきりしていることは、「もし道鏡が皇位についていたら、126代続く皇統が48代で途絶えてしまっていた」ということである。
日本の皇室が1500年以上続く「世界最古の王室」とされることもなかっただろう。
参考文献
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・八幡総本宮宇佐神宮 和気清麻呂とご神託
この件は孝謙天皇と道鏡の自作自演だったのだと思う。
天皇の許可を得ずなくとも、勝手に軍事力を動かせるような藤原仲麻呂への反発であったと思う。
淳仁天皇のような藤原仲麻呂の言いなりの傀儡政権への反発であり、反藤原の筆頭である橘諸兄や奈良麻呂に無実の罪を着せるなど藤原一族の横暴への抵抗だったのと思えてならない。、
藤原仲麻呂は恵美押勝と名乗り、天皇家の印鑑さえも押さえていたと聞く。つまり天皇家の権力を乗っ取り、天皇と成ろうとしたは藤原仲麻呂であり、孝謙(称徳)天皇は藤原の一族に乗っ取られるなら道鏡に譲る方がマシとは思ったかも知れない。(実はそれが作戦)。つまり藤原に権力が移譲しないために道鏡と結託して仕組んだ事件だと推察する。
孝謙(称徳)天皇死後も、弓削道鏡は東国で薬師寺別当で生を終えた事実は意味深である。
ついでに弓削氏は飛鳥時代から続く名門だったが、中大兄皇子&藤原鎌足時代に潰された蘇我家の家系であることを付け加えておく。孝謙(称徳)天皇は女性でありながら、立派に聖武天皇の意志を継ごうとした素晴らしい天皇だったと思う。
彼女に処女性を求めたのは藤原であったのだろう。それが故、子供が居なかったことは残念でならない。
道鏡と子供を作っていれば、また別の歴史があったかも知れないなどと想像する者です。
追伸。父である聖武天皇が優婆塞であった行基を東大寺僧正に取り上げたことをつぶさに見ていた阿部内親王(孝謙天皇)にとって道鏡を取り上げたことは特段の驚きではない。聖武と孝謙天皇にとって、民間人を取り上げることは藤原へのけん制だったのだ推察する。ちなみに聖徳太子もそうした。素晴らしい女帝だったと思う。