室町時代

【足利将軍家の謎に迫る】 なぜ戦国期の足利将軍は弱かったのか?

弱かった戦国期の足利将軍

画像:室町幕府12代将軍足利義晴 wiki.c

画像:室町幕府12代将軍足利義晴 wiki.c

足利氏が征夷大将軍を務めた室町時代は、1338年~1573年まで235年間続きます。

一般に、初代足利尊氏~2代義詮の時代を南北朝抗争期、3代義満~6代義教の時代を幕府安定期。そして、8代義政・9代義尚以降は、応仁の乱による戦国期に突入します。

そうした状況下で、足利将軍は、10代義稙・11代義澄・12代義晴・13代義輝・14代義栄・15代義昭と続いていきます。

しかしこの将軍たち、互いに将軍職を争ったりして、その結果、京都から地方に逃れる「流れ公方」となったり、果ては殺害されたり、行方不明になったりと、まさに動乱の世さながらに、いつ滅亡してもおかしくない立場に置かれていました。

将軍職と言えば、武家の頂点。そんな立場にありながら、なぜ足利将軍の軍事力はそんなに弱かったのか。今回はその点に迫ったみたいと思います。

余りにも少ない幕府直轄領

日本史上、幕府政権は、源氏・北条氏の鎌倉幕府・足利氏の室町幕府・徳川氏の江戸幕府の3つです。
で、最も不安定だったのが足利氏の室町幕府といえます。

では、なぜ不安定であったのか、その理由の一番は直轄領が少なく、強力な直属軍を持っていなかったからです。

ちなみに江戸幕府は将軍家だけで400万石の直轄領、さらに俗に旗本八万騎と称される直属軍がありました。

一方、足利将軍はというとその領地はほぼ山城一国。時代により石高は変わるので何とも言えませんが、江戸時代の初めだと山城国は約22万石です。ですから、養える兵はせいぜい7,000人から、多くても10,000人位でしょうか。

ただ、戦国期には将軍家といえども山城国全土の領有は難しかったので、動員できる兵力はもっと少なくなったはずです。

となると、足利将軍家が常時動かせる兵は、奉行衆と呼ばれる京都在番の直臣たち、わずか300人位となってしまうのです。
これでは、何とも心もとないですよね。

非世襲だった当初の守護職

画像 : 足利尊氏 public domain

では、足利将軍は謀反など、その身を脅かすような事件が起きた時、どのような有事対応を行っていたのでしょうか。

それは、足利将軍が地方においた守護に頼っていたのです。

室町幕府の政治機構は、中央と地方に分かれます。

中央は、将軍の下に有力な守護が務める将軍補佐官である管領。その下に行政機関である、政所・侍所・問注所などがありました。

政所は、将軍家の直轄領の管理・金銭関係の裁判。侍所は、京都の治安維持。問注所は、書類などを扱う事務機関です。

そして、地方は将軍の下に守護・鎌倉府などがおかれます。足利将軍家が、ことある毎に頼ったのがこの守護でした。

では一体、守護とは何なのか。それは端的に言えば、「国ごとに置かれた将軍の代理人」となります。

室町幕府初代将軍である足利尊氏が定めた『建武式目』には、守護について以下のように記されています。

守護職は上古の吏務なり、国中の治否、ただこの職に依る

守護が補せらるの本意は、治国安民のためなり。人として徳あらばこれを任じ、国として益無くんばこれを改めむべし

簡単に現代語に訳しますと、「守護というものは律令における国司だ。国が収まるか否かはこの守護にかかっている。」「守護の本務は、治国安民のためで、人として徳があれば守護に任じ、不適任であるなら直ちに罷免する」となります。

要するに、発足当初の足利将軍が考える守護とは、将軍が京都から各国に派遣した将軍の代理人であり、その国を領有するものではなく、非世襲の職ということになるのです。

こうして尊氏は、守護に味方の有力武将たちを任命します。
その代表が、足利氏支流である細川・斯波・畠山の各氏で、将軍の補佐・管領を代わるがわる務めたことから「三管領」と呼ばれます。

その他にも赤松氏・京極氏・武田氏・土岐氏・山名氏・大友氏・島津氏などが、守護に任命されました。

将軍と守護は持ちつもたれつ

画像:管領 細川正元 wiki.c

画像:管領 細川正元 wiki.c

最初は将軍の単なる代理人として、国内統治を安定させるための地方官であった守護は、時代が進むにつれその様相が変化していきます。

その理由として、室町幕府が安定期を迎えるまで、南北朝の争乱などの戦乱が続き、戦争に勝つためには守護の協力を必要としたからです。

その結果、将軍は守護たちが望む「世襲」を認めることになります。こうなると、父が死ねば子や弟が守護職を継ぎ、それは任国における武士たちとの関係を密接にし、守護の軍事力の強化に繋がりました。

また、1346(貞和2)年には、武士間の所領紛争に介入できる権利と、幕府の判決を現地で強制執行する司法執行の権利の2つが守護に与えられます。

さらに、その6年後には、観応の擾乱と呼ばれる戦乱の全国的な波及に対処する軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられ、経済的権威をも強めていくことになります。

こうして守護は、任国を世襲支配できるとともに、経済力・軍事力・司法力を有する守護大名へと成長していくことになりました。

こうなると、守護は将軍の命令であっても、不都合であったり、利益にならないものには服さなくなります。そして、守護大名が将軍への協力を拒否すると、将軍はたちまちに危機に瀕してしまう。

これが戦国期の足利将軍家の軍事的な弱さに繋がっていくのです。

画像:室町幕府13代将軍 足利義輝 wiki.c

画像:室町幕府13代将軍 足利義輝 wiki.c

しかし、そんな状況の中でも、室町時代は100年以上続きました。そこには、この時代特有の将軍と守護の持ちつ持たれつの関係がありました。

それは、幕府権力保持に必要な軍事対応で守護大名に依存する将軍。領国支配のために将軍の権威を必要とする守護大名という、戦国乱世であるが故の関係でした。

この関係が応仁の乱を引き起こし、100年以上続く戦国時代を到来させたと言っても過言ではありません。

単純そうに見えて、実は複雑な足利将軍家と守護の利害関係が、波乱に富んだ室町時代を形成していたのです。

※参考文献
山田康弘著『足利将軍たちの戦国乱世』中公新書刊 2023年9月

 

高野晃彰

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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