昭和32年(1957年)、笠置シヅ子は歌手を廃業し女優へと転身します。
「ブギの女王」として頂点を極めた笠置シヅ子は、なぜ歌を捨てる決意をしたのでしょうか。史実をもとに解説します。
笠置シヅ子のピークは『買い物ブギー』。ブギが終焉を迎えた理由
昭和23年(1948年)に発売された『東京ブギウギ』の大ヒット以来、笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)と服部良一の名コンビは、立て続けにブギをリリースし、『ジャングル・ブギ―』や『ホームラン・ブギ』など数々のヒット曲を生み出しました。
しかし、昭和25年(1950年)に発売した『買物ブギー』を頂点に、その後ヒット曲を連発することはなく、ついにブギは終焉を迎えます。
【ブギウギ】 生涯で17曲のブギをリリースした笠置シヅ子 「流行語になった買物ブギー」
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/boogiewoogie/81246/
ブギブーム終焉の理由は、日本の音楽界を取り巻く環境の変化でした。特に昭和26年(1951年)に開局した民放ラジオは、大衆音楽の世界に多大な影響を与えています。
ラジオでは洋楽のレコードを流す番組が人気になり、若者は洋楽に夢中になります。
実演に重きを置いたシヅ子の和製ブギウギに人々は関心を持たなくなり、特に1950年代半ばから台頭してきたマンボやロカビリーといった新しい音楽は、シヅ子が戦前から歌ってきたジャズやスイングを過去のものへと追いやりました。
また洋楽の台頭と同時に、哀愁あふれる日本的なメロディーをもつ歌謡曲への回帰が起こり、民謡調や演歌調の曲が流行歌の多数を占めるようになります。
三橋美智也や三波春夫、村田英雄など、流行歌の主流を演歌が占め、古賀政男、船村徹、遠藤実、市川昭介といった作曲家がヒット曲を連発しました。
この頃から服部良一は流行歌の世界に見切りをつけて、コンサートなどの仕事を中心に活動するようになり、ヒット曲とは無縁の道を歩んでいます。
一方、シヅ子は流行歌手としての絶頂期は過ぎたものの、舞台や映画、さらには昭和28年(1953年)に開局したテレビでも活躍していました。
新しい世代の台頭
昭和31年(1956年)、アメリカでエルヴィス・プレスリーがメジャーデビューしたこの年、日本では石原慎太郎の『太陽の季節』がベストセラーとなり、戦後派世代が台頭。経済白書には「もはや戦後ではない」というフレーズが登場し、時代は目まぐるしく変遷していきます。
歌謡界では、昭和20年代後半から世界的ブームとなったマンボが日本を席巻。マンボでヒットをさらったのは、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみで、彼女たちは昭和12年生まれの「三人娘」とよばれ、当時人気絶頂でした。
ひばりたちの後を追う形で、昭和30年(1955年)笠置シヅ子も服部良一作曲の『ジャンケン・マンボ』『エッサッサ・マンボ』をリリースするものの、ヒットには至りませんでした。
このとき、シヅ子は41歳。
「ブギの女王」として一世を風靡した時代はわずか数年で過ぎ去り、芸能界に台頭してきた若い勢力との新旧交代の気配を否応なく感じ取っていました。
●笠置シヅ子が歌手を廃業した理由
昭和31年(1956年)3月の公演を終えた後、シヅ子は舞台活動を停止。
その年に吹き込んだ『たよりにしてまっせ』『ジャジャムボ』が彼女の最期のレコードとなります。
12月31日には第7回NHK紅白歌合戦に出場し、大トリとして『へイヘイブギー』を歌い、年明け早々、歌手を廃業し女優業に専念することを公表しました。
松竹楽劇部に入部し、13歳で初めて舞台に立ってから30年が経とうとしていた昭和32年(1957年)、笠置シヅ子は歌手という檜舞台から降りることを決めたのでした。
「自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない」
引退当時、シヅ子は歌手廃業の理由についてこう語りました。
後年、彼女はテレビ番組に出演し、引退した理由の一つとして「太ってしまい以前のように動けなくなった」ことを挙げています。
シヅ子の魅力は歌と踊りにあり、若いときのような歌と一体になったエネルギッシュな踊りができなくなれば、「ブギの女王」としてのイメージが失われてしまいます。あくまでも「ブギの女王」のまま終わりたい、シヅ子はそう考えていたのでした。
ただし、歌手廃業といってもきっぱり歌うことを辞めてしまったわけではなく、近代音曲史研究家・輪島裕介氏の著書『昭和ブギウギ: 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』によると、シヅ子は1957年、1958年、1960年に舞台に出演しており、60年の舞台・服部良一の「シルバー・コンサート」では『ヘイヘイブギー』を歌ったそうです。
シヅ子は、歌謡界からゆるやかにフェードアウトしていったのでした。
女優一年生として再出発した笠置シヅ子
「笠置シズ子」の名を捨て、女優「笠置シヅ子」として再出発したシヅ子は、映画会社やテレビ局を訪れ、新人女優のギャラで使ってくださいと挨拶回りをしました。
彼女は過去の栄光にすがることなく、女優として人々に喜ばれる芸を見せたいという信念のもと、演技の勉強に本気で取り組み、ドラマのリハーサルではディレクターに、
「笠置シズ子の名を忘れてほしい。ヨチヨチ歩きだから、どんな大勢人がいる前でも、遠慮なくダメを出してほしい」
と何度も懇願しています。
そんな努力の甲斐あって、「雨だれ母さん」(TBS)、「幸福の階段」(NHK)、「台風家族」(フジ)など、次々にドラマやラジオ番組に出演が決まり、人情家の大阪のおばちゃんキャラ・笠置シヅ子が定着していきました。
シヅ子の女優としての第二の人生は、歌手時代のような華やかさはないものの、長く途切れることなく続きました。
笠置シヅ子の最期
日本劇場が取り壊されることになり、昭和56年(1981年)2月15日、『サヨナラ日劇フェスティバル』の最終日に、シヅ子はステージで挨拶をしています。
復員した服部との再会も「腹ぼて」カルメンを熱演したのも、会場があふれんばかりにわいた『東京ブギウギ』の初演も日劇でした。日劇はシヅ子にとって、帝劇と並ぶ戦後のメイン・ステージであり、思い出のたくさんのつまった特別な場所だったのです。
この後、病に倒れた笠置シヅ子は、昭和60年(1985年)3月30日、帰らぬ人となりました。享年70。
最愛の娘に見守られる中、ポツリとつぶやいた「日劇時代は楽しかったね」。これが笠置シヅ子、最後の言葉となりました。
笠置シヅ子のレパートリーは、現在も多くの歌手によってカバーされています。
敗戦後、底抜けの明るさで人々の生きる支えとなった「ブギの女王」。シヅ子の「ウキウキ、ワクワク」は今なお健在のようです。
参考文献
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』.現代書館
輪島裕介『昭和ブギウギ: 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』.NHK出版
この記事へのコメントはありません。