足利義政の美意識が凝縮された銀閣寺
「銀閣寺」は、正式には「慈照寺」といい、臨済宗相国寺派の寺院として、金閣寺とともに相国寺の塔頭寺院の一つとなっています。
同寺は「古都京都の文化財」として、世界遺産にも登録されており、国内外から多くの観光客が訪れる人気の寺院です。
室町幕府8代将軍・足利義政が造営した別荘の東山殿を、その没後に寺院とした「銀閣寺」。東山殿は、義政が自ら設計し、1486(文明18)年に「東求堂」が完成。その3年後に「銀閣」を上棟しました。
金閣が北山文化の華やかな雰囲気にあふれているのに対し、銀閣は東山文化に代表される「わび」「さび」の世界を伝えているのが特徴です。
よく言われるのが「実際に銀が塗られていたのか?」ということですが、これについては2009(平成21)年に行われた調査で、塗られていなかったことが証明されています。
実は銀閣という名は江戸時代につけられたもので、それ以前は観音菩薩を祀るため「観音堂」と呼ばれていたのです。
足利義政は執政者としての資質は評価が分かれるところですが、芸術家、さらにはその保護者としてはなかなかのものでした。
自ら建築の設計や作庭、茶の湯を行い、生け花や水墨画などの芸術を支援しました。
今に伝わるこうした芸術は、義政が主導した東山文化から生まれたものです。
「銀閣寺」には「美の求道者」ともいうべき義政の卓越した美的センスを随所に見ることができます。
東山殿の二大建築・銀閣と東求堂
「慈照寺(銀閣寺)」内で見るべき建築は、やはり「銀閣」と「東求堂」でしょう。
「銀閣」は二層からなり、一層の心空殿は書院風、二層の潮音閣は板壁に花頭窓を設え、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。
屋根には金銅の鳳凰を戴き、観音菩薩を本尊とする銀閣を守護します。
そして、義政の持仏堂である「東求堂」は、一層の入母屋造りで、現存する最古の書院造りとして有名です。
特に北面東側の四畳半は、義政の書斎兼茶室で「同仁斎」と呼ばれます。
東山文化は、この部屋から生み出されたといっても過言ではありません。
四季折々に美しさに彩られる庭園
「慈照寺(銀閣寺)」の庭園は、「銀閣」や「東求堂」を取り囲むように広がる池泉回遊式の下段の庭と、山腹へと続く上段の庭があり、それぞれに異なった風情を感じさせてくれます。
下段の池泉回遊式庭園は、義政が自ら作庭を指揮したといわれ、月待山を借景に錦鏡池をめぐるように整えられています。
その庭には、大名や公家たちから寄進された多くの石が配されていますが、錦鏡池の中にある大内石は守護大名の大内氏から贈られたものです。
義政は、将軍の権力が弱体化したとされる応仁の乱の真っただ中を生きた将軍ですが、いざ庭を造るとなる有力者たちはこぞって、それに協力したのです。
池と「東求堂」の間に横たわる白砂の庭には、有名な向月台と銀沙灘があります。
向月台は、白川の砂を用いて富士山型に盛られたもので、江戸時代になってから造られたました。
時代が下っても、独創的な形態は義政の美意識を受け継いだものといえます。
また、銀沙灘は月待山から昇る月が白砂に含まれた石英を照らし、きらきらと輝くことにより諸堂を浮かび上がらせるという意匠の砂盛りです。
この庭園には、義政の卓越した美的センスを見ることができ、「銀閣」「東求堂」とともに、単なる庭園美という概念を超えて、茶道・華道・絵画などを複合した東山文化の美の集合ともいえるでしょう。
実は「銀閣寺」を訪れた人のほとんどが、「銀閣」「東求堂」を含め、下段の庭を見て帰ってしまいます。
しかしここまで来たら、ぜひ裏山にめぐらされた道を歩いて欲しいものです。
裏山中腹の上段の庭には、義政が茶事に用いた井戸とそれに付属する石組庭園「お茶の井庭園」があり、彼が生きた時代そのままに保存されています。
さらに山を登ると展望台があり、整然とした均整美を見せる「銀閣」や「東求堂」が並ぶ境内を一望できます。
初夏の新緑・秋の紅葉・冬の雪景色と、季節の美しさが一段と際立つ、おすすめのスポットです。
銀閣寺の裏にある中尾山城跡と大文字山
展望台がある裏山から、峰続きの如意ヶ嶽の尾根上には「中尾城跡」が残っています。
この城は、室町幕府12代将軍・足利義晴が、亡命先の近江から京都奪還のために築いた足利将軍家の城郭です。
義晴の没後には、義晴の子で剣豪将軍として名高い13代将軍・義輝も入城。
三好軍との間に、激しい戦闘が行われました。
いまはわずかな土塁と堀跡などが残るだけですが、当時は最新兵器の鉄砲での戦いを意識した防御を施すなど、その複雑な縄張りとともに、かなりの堅城であったようです。
義政が心血を注いで造営した「銀閣寺」のすぐ裏で戦闘を行ったのは、この地が京都へ入る要衝であったからでしょう。
思えば、戦火が「銀閣寺」に及ばなかったのは、幸いというしかありません。
城跡へは「銀閣寺」の門前を左に曲がった先にある「八神社」を右折、中尾城のいわれが書かれた看板があり、その先の駐車場を抜け、大文字山登山道を進むと約30分で付きます。急峻な山道ですので、登りも下りも十分に注意して歩きましょう。
そしてもし時間が許せば「中尾城跡」からは一気に「大文字山山頂」を目指しましょう。
登山道に従って途中、滝や石仏を見ながら進むと45分ほどで到着です。
「大文字山」は東山如意ケ嶽の支峰で標高466m。毎年8月16日の夜「大」の文字が燃え上がる五山の送り火で知られる山です。
山頂には、大文字の火床が75床並びます。
なかでも「大」の字の第2画目は160m、第3画は120mもあり大迫力です。
眺望も絶好で、京都市内はもとより晴れていれば大阪の高層ビル・阿倍野ハルカスものぞめます。
実は「大文字山」は、京都人にとっては結構人気のハイキングコースです。
しかし、さすがに観光客で訪れる人はまれで、それだけに貴重な体験になること間違いないでしょう。
※参考文献
高野晃彰編 京都歴史文化研究会著 『歴史と文化を愉しむ 京都庭園ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊 2018.2
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