陽気で楽し気なのに、どことなく物憂げな雰囲気もあわせ持つ不思議な存在、道化師。
近年では、ホアキン・フェニックス主演で大反響を巻き起こした映画「ジョーカー」の中で登場したピエロのイメージが強烈でした。
異彩を放つ独特な衣装やメイク、そして英雄でもなくヒロインでもなく、まして味方なのか敵なのかすらも分からない。
そんないわば素性の知れない存在が、どうして長年人々の想像力を惹起し、権力者や民衆、芸術家たちにも広く愛されてきたのでしょうか。
今回は、その歴史と成り立ちを探ってみました。
語源から見る道化師の原型
日本語で「道化師」と言われてすぐに思い浮かぶのが、白塗り顔をしたいわゆる「ピエロ」の姿でしょう。
実は「ピエロ」という言葉が登場したのは比較的新しく、16世紀のイタリアにおける即興喜劇の中で登場する「プルチネッラ」から派生したものです。
また、フランスの俳優・劇作家として知られるモリエールが1665年に発表した戯曲『ドン・ジュアン』において、「ピエロ」という名の農民が登場しています。
これはフランス人男性の名前として一般的な「ピエール(pierre)」が元となったとされています。
また、道化師を表す言葉としては「クラウン」も有名です。
clown(クラウン)は土の塊を意味するclodなどから転じ、田舎者、滑稽な者、そして道化師を含むようになったと言われています。
それからタロットカードを見たことがある人なら、「愚者」のカードに描かれた「fool(フール)」も連想するかもしれません。
この「fool」も道化を表す言葉です。
foolはラテン語で「ふいご」を意味するfollisを語源としていますが、道化師が軽妙な話をする様子が、まるでふいごを使って口から風を吹いているように見えたのでしょう。
ちなみに混同されがちな「クラウン」と「ピエロ」ですが、クラウンは道化師の総称であり、その中でもおなじみの涙のメイクを施されたものをピエロと呼びます。
古代から生き延びる異能の者たち
道化師の歴史はかなり古く、古代エジプトにおいてはファラオを興じさせるために存在していたと言われています。
そして古代ギリシャから古代ローマへと時代が下ると、裕福な家庭の晩餐に際して、当意即妙な受け答えや物まね芸などで場を盛り上げて、食事に与る者たちが現れます。
彼らはいわゆる「伴食者」としての役割を担っていました。またローマ帝国の頃には心身が健常ではない者などを魔除けとみなし、奴隷としてそばにおくような習慣も見られました。
こうした人々は「愚者」として扱われるとともに、彼らを愛玩の対象として所有したがる貴族の趣味や習慣が、ヨーロッパの一部では18世紀に至るまで続きました。
国の命運までも見抜いた宮廷道化師「スタンチク」
こうして、近代ヨーロッパの多くの王侯貴族の邸宅では「楽しみを与える人々」が職業のひとつとして存在するようになったのです。
特に16世紀半ば以降のイングランド王国・チューダー朝においては、宮廷に召し抱えられた道化師たちが盛んになります。
彼ら宮廷道化師たちの仕事は単なるエンターテイナーに留まらず、主人への自由な物言い、つまりオブザーバー的な性格も帯びていきました。
宮廷道化師の存在は心身の先天的な条件などから特権的であり、その物言いは「狂人の戯言」と付される場合もありました。しかし多くは「神聖なもの」とみなされており、次第に治外法権的な「権力者に対する自由な発言」が求められるようになったのです。
その中でも舌峰鋭い宮廷道化師といえば、ポーランドのスタンチクが有名です。
スタンチクは15-16世紀に生きた宮廷道化師で、レクサンデルとジグムント1世スタルィ、そしてジグムント2世アウグストの、三代の王達に重用されました。
スタンチクは高い知性と政治哲学の才を備えた人物で、その慧眼を当時のポーランドの状況と行く末に対して如何なく発揮しました。
彼の宮廷に対する鋭い風刺と批判は、人々に畏敬の念さえ抱かせるほどであったと言います。
1533年のある日、リトアニアから取り寄せられた巨大な熊が首都クラクフ近くの森に放たれ、ジグムント1世王がそれを狩るという狩猟が行われました。
ところがこの熊が王のみならず、同行していた側近、身重の王妃ボナらに突進し、王たちの一行は大パニックとなりました。そしてボナはこの時の落馬が原因で流産してしまったのです。
しかし、その場に居合わせたスタンチクは、なんといち早く逃げていたのです。
これに憤怒したジグムント1世王は、スタンチクを大いに批判しました。
しかしスタンチクは「檻に入っている熊を放つ方が馬鹿げているでしょう」と、あっさり言い返したのです。
これは王が行った熊狩りに対してだけではなく、王がとっていたプロイセン公領への政策を暗に批判した発言でもありました。
当時ポーランドはプロイセン公領を征服していたものの、王はこれを直轄領にはしていませんでした。のみならず、王は属領としてプロイセン公領に一定の自治権が与えていたのです。まさに熊を手元に置きながら、その扱いに油断が生じていたかのごとくです。
そしてスタンチクが予見し危惧したように、後にプロイセン公領は独立国家となり、ロシア・オーストリアとともに、ポーランド分割へと参入していったのです。
おわりに
その後「宮廷道化師の伝統」は、イギリスでの内戦やフランス革命など歴史の転換期を機に、18世紀には一部の国を除いて終焉を迎えます。
しかし、古代から息づいた道化師の歴史は現代でも身近なエンターテイナーとして引き継がれています。
自由で批判精神に富んだ時代の名残が、現代の彼らの不思議な魅力にもつながっているのかもしれません。
参考 :
城西人文研究第19巻第2号『道化のコンセプト』小野昌
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