戦国時代

戦国大名が生まれた3つのルーツとは 「織田家、武田家、毛利家…どうやって生まれた?」

画像 : 北条早雲。下剋上の体現者として戦国乱世の幕開けを告げた梟雄として知られる。public domain

戦国大名はどのようにして生まれた?

戦国大名とは、日本の戦国時代(15世紀後半から17世紀初頭)に活躍した武士の指導者であり、その出自や台頭の過程は多様だった。

多くは武家出身であり、戦による領地の拡大、外交戦略などによって勢力を拡大していった。

戦国大名は、戦での戦略や戦術はもちろん領地の統治能力も求められた。また、家格や血縁関係も重要で、名門武家出身の者が多かったが、一部では出自を超えて出世する者も存在した。

このように戦国大名は、時代の激動や社会の変化に対応しながら、自らの野心や能力を駆使して台頭していったのである。

しかし戦国大名は、ある日突然出現したわけではない。

彼らのルーツは、大きく分けると3つ存在するのだ。

今回は「戦国大名の3つルーツ」についてわかりやすく解説していこう。

守護

一つ目は、室町時代に幕府の任命により各国を統治していた「守護」が、徐々に力をつけた例だ。

守護とは、鎌倉時代から続く御家人制度の下で、地方の治安維持を担当する幕府の役人である。
領地を支配し軍事力を動員して、その名の通り地域を守護していた。

しかし室町時代に幕府の権威が低下すると、各国の守護は領国内で起こる紛争に介入し、地頭らを自らの家臣としながら勢力を拡大していった。

地頭は荘園ごとに置かれ、税の取り立てが主な仕事だった。守護は地頭を監督する役割も担っており、地頭を兼ねることも多くあった。

その中で力をつけた一部の守護が独立し「守護大名」となったのである。

画像 : 武田信玄 public domain

その際たる例が、甲斐の武田氏・駿河の今川氏・豊後の大友氏・薩摩の島津氏などである。

守護代

二つ目は、各国の「守護代」が成り上がった例だ。
守護代とは、守護の地域支配を代行する役職である。

守護は中央の政務に携わるために京都や鎌倉にいることが多く、領地を留守にせざるを得ないことが多かった。
こうして守護が本拠地を離れる際や不在の際などに、守護代は代理として地域の安定を維持し、税の徴収や紛争の仲裁など行政業務を遂行した。

しかし、戦国時代になると守護代はしばしば独自の権力を持ち、守護との関係が複雑化していった。一部の守護代は実質的に独立し、自らが地域の支配者として振る舞うこともあった。

このように守護代も各国の守護と同じように、現地でじわじわと力をつけて勢力を拡大していったのである。

画像 : 織田信長 public domain

越前の朝倉氏・尾張の織田氏・阿波の三好氏などが、その代表例である。

在地領主

三つ目は、各国の「在地領主」が力をつけた例だ。

彼らの多くは地頭出身で、地域の一部や小さな領地を支配する地方の有力者だった。

室町幕府の力が衰える中で守護や守護代と関係を持ち、その支配下にあったり、時には対立したりしていた。
彼らの政治的立場や影響力は地域によって異なり、時には他の大名や勢力との抗争に巻き込まれることもあった。

そこで力をつけ、守護による統治から独立して大名化した者たちも存在した。

画像 : 毛利元就、晩年の肖像画。 public domain

在地領主から戦国大名になった例は、三河の松平氏(後の徳川氏)・安芸の毛利氏・肥前の龍造寺氏・近江の浅井氏などが挙げられる。
中には、百姓の子という低い身分から織田信長に仕えて頭角を現した豊臣秀吉や、下剋上で成り上がった戦国武将も多かった。

このように室町幕府の弱体化を背景に、様々なルーツを持つ者たちが弱肉強食の世の中を勝ち抜き、のし上がって戦国武将になり、各地で大きな力を持つ勢力となっていったのだ。

何故戦ったのか

そもそも、なぜ戦国武将たちは戦う必要があったのだろうか?

当時の日本では、全国各地の戦国大名たちが領国を持ち、現地の統治を行なっていた。
だが、全ての戦国大名が野心に燃えて「天下取り」を目指していたわけではなかった。

「天下統一」という広い視野を持っていた戦国大名は、織田信長を始めとする一部の戦国武将のみで、多くの大名は領国の拡大を目的に隣国に戦を仕掛け、人口と穀物の生産量を向上させ、自国を豊かにするのがその大きな理由だった。

その最たる例は、四国統一を目指した長宗我部元親であろう。

画像 : 長宗我部元親 public domain

とはいえ、勝てる見込みのない相手に戦いを仕掛けるのは不毛であり、自国の領土保全のために、力の大きな大名に臣従して領土を確保する戦略を取った戦国大名も存在した。豊臣秀吉に仕えた加賀の前田利家はそれにあたるだろう。

また、領土の拡大よりも「一族の存続」を第一に考えた者たちもいる。

親子・兄弟が東軍・西軍に分かれた信州上田の真田昌幸率いる真田氏だ。

長男の信之は東軍につき、昌幸と次男の信繁が西軍につくことで、どちらが勝っても真田一族が存続するようにしたのである。

最後に

このように戦国大名の台頭には主に3つのルーツがあり、各地での采配や政治的な駆け引き、時代背景などが複雑に絡み合う中で、目的もそれぞれ違っていたのだ。

彼らの物語は、戦国時代の複雑さと各々の人間ドラマを見事に映し出しており、今も人々を魅了し続けている。

参考文献:安藤 達朗、山岸良二、佐藤 優(2016)『いっきに学び直す日本史 − 古代・中世・近世 教養編』

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 戦国大名はどうやってお金を稼いでいたのか? 「年貢、鉱山、交易、…
  2. 東郷重位とは 【新選組も恐れた示現流の流祖】
  3. 毛利氏 ―安芸の国人から中国地方統一まで―
  4. 上杉景虎の悲劇 「本当に美男子だったの?戦国時代のイケメン武将」…
  5. 戦国時代の古戦場が身近な場所に!古い地名に秘められた歴史のロマン…
  6. 鳥居元忠・三河武士の鑑と称された武将
  7. 『死と隣合わせだった戦国武将たち』 どんな「娯楽」を楽しんでいた…
  8. 最後まで美濃斎藤氏を支え、義に殉じた謎多き武将・長井隼人佐道利の…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

白洲次郎について調べてみた【マッカーサーを怒鳴りつけた日本人】

20世紀初頭、ヨーロッパのカーレースを席巻したイギリスのスポーツカー「ベントレー 3リッター」に乗り…

温泉旅館の新入社員が「雲仙さがし」の研修会

長崎県雲仙市の雲仙温泉街にある旅館やホテルの新入社員合同研修会「はじめての雲仙さがし」が同温泉街であ…

日本の社畜文化とコロナ 「風邪でも休みにくかった日本人」

風邪でも絶対休めない日本人以前、風邪薬やアレルギーの薬の宣伝文句で「風邪でも、絶対休めな…

命がけの合戦中でも「メイク」を欠かさなかった戦国大名とは

今でこそ「メンズメイク」という言葉があるくらい男性も身だしなみに気を使い、メイクをする人が以前よりも…

金剛「連合軍から日本海軍の殊勲艦に挙げられた高速戦艦」

最期の外国製戦艦 金剛戦艦・金剛は太平洋戦争において日本海軍が保有していた12隻の戦艦の…

アーカイブ

PAGE TOP