目次
建仁寺方丈にある8幅の襖絵 『雲龍図』
京都の代表的な花街・祇園。その北側に、日本最古の禅寺とされる建仁寺が建つ。
臨済宗建仁寺派の大本山である同寺には、本堂の法堂をはじめ多くの堂宇・塔頭が建ち並ぶ。
本堂と繋がる方丈は、1599(慶長4)年に、安国寺恵瓊が安芸の安国寺から移建した建物だ。
その方丈には、8幅の表具仕立てになっている襖絵 『雲龍図』(重要文化財)が展示されている。作者は、狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松(かいほう ゆうしょう)だ。
この画はもとは、方丈東南の礼の間の襖に描かれたものだったが、1934(昭和9)年の室戸台風により方丈が被害を受け、京都国立博物館に寄贈された。
今見ることができる『雲龍図』はというと、キャノンが高精度カメラとプリンターを駆使し制作した複製なのだ。
この作品について、キャノンの文化財未来継承プロジェクト「TSUZURI(綴)」のホームページには以下のように記されている。
近世初期の建仁寺復興にからんで海北友松が制作した日本を代表する水墨画群、重要文化財「建仁寺丈障壁画」五十面のうち礼の間を飾る八面の襖絵。
建仁寺方丈に招かれた客が最初に通される礼の間に於いて、北面には咆哮とともに雲間から出現する龍が、西面には待ち構えるように睨みをきかす龍が、それぞれに雲を従えながら圧倒的な迫力をもって描かれている。
近世以来武門・禅門に特に好まれた龍を画題として、力量の試される大画面に余すことなく描きあげた本作品は、海北友松の得意とする水墨の龍の中でも随一の作品と言える。(CANON 文化財未来継承プロジェクト「TSUZURI(綴)」より引用)
今回は、この『雲龍図』を描いた海北友松について紹介しよう。
浅井家重臣の家に生まれた海北友松
海北友松(かいほう ゆうしょう)は、1533(天文2)年、北近江の戦国大名浅井家の重臣・海北綱親の5男として生まれた。しかし、友松が2歳の時に綱親は討死。それを契機に、京都東福寺で禅僧としての修行に入ったという。
戦国真っただ中の当時、武士はいつ戦いで命を落とすかわからない。また、群雄割拠の近江で、浅井氏の勢力は決して安定したものではなかった。友松が東福寺に預けられたのは、一族の供養のためか、いざという時に海北家の血脈を残すためかは定かではない。
ただ一般的には、この禅僧としての修行時代に狩野元信あるいは永徳に画を学び、画家としての基礎が完成したと考えられている。
友松は禅僧としての修行とともに、弓・太刀・槍の修行も怠らなかったという。友松に流れる武士としての血がそうさせたのであろう。
海北家再興を目指し幅広い人脈を構成
「僧籍の画人」という立場で、狩野派の絵師の一人として画業を行っていた友松に一大転機が訪れたのは、1573(天正元)年のことだった。
海北家の主・浅井長政が、織田信長により滅亡に追い込まれたのだ。友松の兄たちをはじめとする海北一族も、長政に殉じ家は断絶した。
この時、友松が還俗したのか、僧籍のままであったかは判然としない。しかし彼が、海北家の再興に動き出した可能性は大きいと考えられる。
それはこの機を境に友松が、武人・文化人など、幅広い人脈との交流を図り始めたことから推測できる。
そして友松は、その生涯に大きく関わる2人の人物と知り合うことになる。
ひとりは、織田信長の重臣・明智光秀の筆頭家老・斎藤利三(さいとうとしみつ)だ。
利三の出自に関しては、幕府奉公衆、西美濃三人衆の稲葉一鉄の与力などの他、光秀の姉の子であったなど定かではない。
しかし利三は、武略に優れた武人だけでなく、茶の湯などにも通じ、文化人としても一流の人物とされている。
そしてもう一人が、京都真如堂の塔頭・東陽坊の住持・東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)だ。
長盛は僧侶でありながら、茶の湯を千利休に学んだ文化人である。その縁で友松は、当時最高の知識人といわれた細川幽斎(ほそかわゆうさい)の知遇を得ることになる。
友松・利三・長盛の3人は只の友人ではなかった。まさに「真の友」と呼ぶにふさわしい関係だったようだ。
余談だが、友松が光秀と知り合いだったという記録はない。だが、光秀の信任篤い利三、光秀の盟友・幽斎との関係から考えて、光秀とは知己であったことは想像に難くないだろう。
しかし、そんな友松と利三の友情に終焉の時が訪れた。
1582(天正10)年6月2日、光秀が信長を滅ぼした本能寺の変が起きたのだ。一度は天下を掌握したかにみえた光秀だが、同年6月12日の山崎の合戦で、羽柴(豊臣)秀吉に敗れる。
光秀は、居城の坂本城に逃れる途中で落ち武者狩りの手に落ち、利三は近江堅田に潜伏したが捕えられて斬首された。
秀吉は、見せしめのために光秀・利三の二人の遺骸の首と胴を繋ぎ、京都粟田口の刑場で磔にして晒したという。
親友・斎藤利三の遺骸を刑場から強奪
ある夜更け、粟田口の刑場に押し入った二つの影があった。
怪しく思った番兵たちが誰何すると、一つの影が突然大声で経を唱え始めた。そして、もう一つの影は月夜に光る抜身の槍を番兵に突き付けた。
友松と長盛である。友松の長槍が唸りをあげ番兵たちを追い払う隙に、長盛は利三の遺骸を背負って真如堂へ走った。
真如堂に戻った友松と長盛は、利三の遺骸を手厚く葬った。
利三は、秀吉にとっては大罪人だ。その遺骸を強奪するだけでなく葬ることは、累が自分たちに及ぶことが十分推測されたはずだが、友松も長盛もそんなことは顧みなかった。それだけ二人と利三の関係は深かったのだ。
そんな友松を突き動かしたのは、「名こそ、惜しけれ」という、辱めをよしとしない武門の血であったろう。
今も真如堂には、東陽坊長盛・海北友松・斎藤利三の三基の墓が仲良く並んでいる。
しかし、なぜ秀吉が友松らを罰せなかったのかという謎は残る。
これについては歴史的な資料は残っていないが、おそらくは安国寺恵瓊の取り成しがあったのではないだろうか。
恵瓊は毛利氏の外交僧であったが、秀吉の近臣となり大名に取り立てられた。そして、友松が修行した東福寺と縁が深かった。友松と恵瓊は同期ともいえる間柄だったのだ。
後に友松が、天下人となった秀吉と正式に面会を果たすのは、秀吉から信任が厚かった恵瓊を通じてのことと思われる。
晩年まで失わなかった反骨の気概
その後、友松は大名家や宮中と親交を深めつつ、絵を描き続けた。そして、従来の水墨画の常識を覆す「立体感のある画風」を確立した。
1615(慶長20)年6月2日、友松は83歳でその生涯を閉じた。
武家としての海北家の再興はついにならなかったが、友松に心残りはなかっただろう。
もし友松が本気で仕官を希望するのであれば、当時の友松には様々な大名から誘いがあったはずだ。
しかし彼は、権力者にへつらうことを良しとしなかった。かつて利三の遺骸を刑場から奪ったという権力に対する反骨の気概は、晩年になってもなお盛んであったに違いない。海北友松という男は、戦国時代末期に燦然と輝く気概のある人物であったといえよう。
気概といえば、山崎の合戦の折、友松は危険を顧みず利三の妻子を匿った。
その子こそが後に徳川家光の乳母となり、大奥で権勢を確立した春日局こと斎藤ふくである。
春日局は友松没後に、その恩に応えるため、彼の妻と子の友雪を江戸に招いて屋敷を与えた。友雪は、春日局の庇護のもと画壇デビューを果たし、後水尾上皇などの宮廷御用を勤め、法橋に任ぜられている。
友松ゆかりの人々を反映した雲龍図
建仁寺の『雲龍図』は、1603(慶長8)年、友松70歳の時の作品といわれる。
とすれば、関ケ原の戦いから3年後、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開府した年となる。
右側の襖には咆哮とともに雲間から出現する阿形(あぎょう)の龍。そして、左側の襖には待ち構えるように睨みをきかす吽形(うんぎょう)の龍。
それぞれ雲を従えながら、今まさに天に昇らんとする姿を圧倒的な迫力で描かれている。
筆者は、この『雲龍図』を見る度に思うことがある。
それは、友松が二つの龍にそれぞれゆかりの人物を反映させているのではないかということだ。
口を開きながら迫る阿形の龍が、豊臣秀吉と徳川家康。そして、それを睨みながら待ち構える吽形の龍が、明智光秀と安国寺恵瓊だ。
秀吉・家康は勝者、光秀・恵瓊は敗者である。しかし、勝ち負けは時の運。それぞれが力の限りを振り絞って、天に昇らんと戦った結果だった。
友松は、そんな4人の姿を『雲龍図』の龍として描いた。そう考えると、なぜ友松が恵瓊ゆかりの方丈に相対するような双龍の画を描いたのか納得がゆくのだ。
もちろん、これは筆者の勝手な解釈である。読者の皆さんも京都にお出かけの折には、ぜひ建仁寺方丈で『雲龍図』をご覧いただきたい。
この記事へのコメントはありません。