ナポレオン3世は、フランスの歴史において特異な存在である。
彼は高名な伯父であるナポレオン1世の影響を受け、その遺産を受け継ぎながらも、独自の道を歩んだ。
1848年から1851年にかけてフランスの大統領を務め、その後18年間は皇帝として君臨し、その政策と運命はフランスの歴史に深い痕跡を残した。
ナポレオン3世の生涯と功績、そして彼がもたらした変革について詳しく探ってみよう。
幸福な幼少期の終わり
ナポレオン3世は1808年にシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルトとして生まれ、一般にはルイ・ナポレオンと呼ばれていた。
彼が生まれた時、伯父のナポレオン1世は権力の絶頂期にあり、フランスのみならずヨーロッパ全土に対して絶大な支配力を持っていた。
その影響でナポレオン1世は自身の親族に王位を授けることが可能であり、弟のルイ・ボナパルト(※ナポレオン3世の父)にはオランダの王位が与えられた。このため、ルイ・ナポレオンはオランダの王子として誕生した。
ルイは伯父であるナポレオン1世を深く尊敬し、彼のような偉大な人物になることを夢見ていた。しかし、幸福な子供時代は伯父の没落によって突如として終わりを迎えた。
ナポレオン1世の敗戦後、ルイの母はフランスとドイツに留まることを禁じられ、スイスへと亡命した。このため、ルイは正式な教育を受けることができなかった。
1831年に兄が亡くなり、その翌年にナポレオン1世の後継者であるナポレオン2世もこの世を去ると、ルイはボナパルト家の当主となった。
そしてルイは、次第にナポレオン1世の後継者として皇帝になることを夢見るようになる。
フランス皇帝への道のり
1836年、ルイはストラスブール駐屯地で一揆を起こした。
7月革命でフランス王位に就いていたルイ・フィリップを、数人の軍人と共に打倒することを試みたが上手くいかず、ルイは逮捕されアメリカへと追放された。
しかし3年後の1840年、ルイ・フィリップがナポレオン1世の遺体をセントヘレナ島からフランスへと運ぶ計画に乗じて帰還。
フランス国内でナポレオン再評価が高まったのを好機として、ブーローニュに上陸して再び一揆を引き起こそうとしたが失敗に終わり、またもや逮捕された。
この時、投獄されたアム要塞での監獄生活は5年にも及んだ。
1848年、フランスでは二月革命が起こり、共和制が成立した。
ルイも政治家として立候補し立憲議会補欠選挙で当選、彼は主に労働者や農民といった一般市民からは熱烈に支持を受けた。
ルイはあまり演説が上手ではなかったにもかかわらず国内で最も人気のある政治家となり、12月の大統領選挙では対立候補たちに大きな差をつけて当選し、フランス初の男子普通選挙で選ばれた大統領となった。
1851年12月2日、ルイはナポレオン1世の戴冠記念日に国民議会を解散し、国民投票を実施してナポレオン3世として皇帝に即位した。
1853年1月30日、ナポレオン3世はスペイン貴族の娘ウジェニー・ド・モンティジョと結婚、1856年には皇位継承者のナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルトが誕生した。
成功した国内政策と失敗した国外政策
ナポレオン3世の政策は、国内においては成功を収めたと評価されている。
鉄道の建設や工業・農業生産量の増加により、フランスはイギリスに次ぐ世界第二の経済大国となった。また、区画整理によってパリの公共施設も整備され、1855年と1867年にはパリで万国博覧会が開催された。
一方、国外政策においても、伯父と同様に国家領土の拡大を目指し、クリミア戦争やイタリア統一戦争へと出兵した。
しかし、1861年のメキシコ出兵に失敗してからは彼の支持は急速に低下した。
そして威信を回復させるために行った1870年の普仏戦争ではプロイセン軍に敗北、ナポレオン3世は捕虜となった。
第二帝政は崩壊し、パリでは労働者たちがパリ・コミューンと呼ばれる労働者政権を樹立したが、それも鎮圧され、フランスは最終的に第三共和政へと移行することとなった。
1871年3月、皇帝を退位したナポレオン3世は釈放され、イギリスの妻子の元へと亡命した。1873年に64歳で膀胱結石により死去し、フランス最後の皇帝はイギリスの聖マイケル修道院に埋葬された。
ナポレオン3世はその出自を利用して独裁体制を確立させたが、その人生は波乱に満ちていた。彼の功績は評価が分かれるが、パリの街並みを美しく整備し、フランス国内の産業化を進めた功績は、間違いなくナポレオン3世自身のものだと言えるだろう。
参考文献 : ナポレオン入門 1世の栄光と3世の挑戦(著 高村忠成)
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