黄巾の乱とは、中国の後漢末期に勃発した大規模な農民反乱である。
その背景には複雑な社会的、経済的、政治的要因が絡み合い、後漢王朝の混乱と崩壊を招く一因となった。
本稿では、『史記』『漢書』『正史三国志』などと並ぶほど極めて評価の高い歴史書『資治通鑑』の記述を参考に、黄巾の乱の原因を詳細に掘り下げ、その勃発の背景について解説する。
張角のカリスマ性
黄巾の乱の中心人物である張角は、河北省平郷西南の鉅鹿に住んでいた。
彼は黄帝と老子を信奉し、妖術や呪符水を用いた治療法を広めた。
張角は「太平道」という宗教運動を創始し、その教義を通じて多くの信徒を集めた。彼の治療法は、病人に自らの過ちを告白させることで病気を癒すというもので、一部の病人に効果をもたらし、人々は彼を神のように崇拝するようになった。
このような宗教的指導者としての張角の存在は、当時の人々の心の支えとなった。病気や貧困に苦しむ農民たちは、新たな希望を求めて彼のもとに集まり、共同体としての連帯感を強めていった。
張角の教えは、単なる宗教的信仰を超えて、社会的な変革を目指す運動へと発展したのである。
張角は弟子たちを各地に派遣し、信徒を増やしていった。十余年の間に、信徒数は数十万人に達し、青州、徐州、幽州、冀州、荊州、揚州、兗州、豫州の八州に広がった。信徒の中には、財産を捨てて流転し、奔走する者も多く、道路は信徒で溢れ返ったという。
しかし、郡県の官僚は張角の真の意図を理解せず、「張角は善道に向けて教化しているので、民の心が帰している」と誤解していた。
当時、太尉だった楊賜(ようし)は上書して述べた。
「張角は民百姓を欺騙し、赦免されても悔悟せず、しだいに勢力を拡張しました。今、もし州郡に命じて追捕させれば、恐らくはさらに騒乱が増し、早めに叛乱が起きるでしょう。どうか刺史と郡太守に勅命を下して、流民の戸籍を精査し、それぞれを護衛して本郡に帰らせ、張角の党を孤立弱体化させ、然る後に、その首謀者を誅殺すべきです。さすれば労せずして平定できるでしょう」 『資治通鑑』より意訳
しかし、楊賜の提言は宮中に留まったままであった。
そこで今度は、司徒掾の劉陶(りゅうとう)が、楊賜と同様の提言を上疏し、霊帝の知るところとなった。
しかし、霊帝は意に介さなかった。
「黄巾の乱」勃発の背景
黄巾の乱が勃発した背景には、後漢末期の経済的困窮が深刻であったことが挙げられる。
この時期、土地の集中と農民の困窮が進行していた。大土地所有者が土地を独占し、小農民は土地を失い、租税や労役の負担に苦しんでいた。農民の生活は極めて困難であり、飢餓や貧困に苦しむ者が多かった。
特に後漢の後期には、天災や飢饉が頻発し、農民の生活はさらに厳しさを増していた。農民たちは、生活の糧を得るために多額の借金を抱え、借金を返済できない者は土地を手放さざるを得なかった。
さらに後漢王朝も財政難であり、打開策として重税を課していたのだ。
こうした経済的困窮は、農民たちの不満を募らせ、彼らを反乱へと駆り立てる大きな要因となった。
中央政府の腐敗
後漢の中央政府は腐敗しており、宦官たちが権力を掌握していた。
霊帝の時代には、宦官の専横が特に顕著であり、彼らは賄賂を受け取り、官職を売買していた。このような政治的腐敗は、地方官僚の堕落を招き、農民たちの不満を増大させた。
政治的状況をさらに悪化させたのは、宦官と外戚との間の権力闘争である。霊帝は宦官を重用し、彼らに権力を委ねていたが、これに反発する外戚勢力との間で対立が激化した。この対立は、中央政府の機能を麻痺させ、政治的不安定を招いた。
このような政治的腐敗と権力闘争も、黄巾の乱勃発の大きな要因となったのである。
黄巾の乱の直接の引き金
黄巾の乱の直接の引き金となったのは、張角の弟子である唐周という信徒が上書して密告したことである。
この密告により、張角の計画が露見し、黄巾党の武将・馬元義が捕らえられ、洛陽にて車裂の刑に処された。この処刑により、張角たちは事態の深刻さを認識し、一斉に蹶起することを決意したのだ。
張角は、太平道の信徒たちを組織化して「三十六方」を設置していた。「方」とは将軍のようなものであり、「大方」は一万人余りを、「小方」は六七千人を率いるとされ、各地で信徒たちを指揮する体制を整えたのだ。
そして張角は
「蒼天已に死し、黄天当に立つべし。歳、甲子に在り、天下大吉」
(青い官服を着る漢王朝はすでに死に、黄巾軍がまさに立ちあがる。時は来年、蹶起すべし) 『資治通鑑』より引用
というスローガンを掲げ、漢王朝の終焉と新たな時代の到来を予告した。
張角は自ら「天公将軍」と称し、弟の張宝は「地公将軍」、張梁は「人公将軍」と称した。
彼らは各地の官府を焼き払い、村落や都城を襲撃し、長官や幹部たちは逃亡した。こうして短期間のうちに、反乱は全国に広がったのだ。
黄巾の乱の結果と人口大激減
霊帝はこの反乱に対処するために、大将軍に何進を任命し、各地の反乱軍を討伐するために軍を派遣した。
盧植、皇甫嵩、朱儁といった名将たちが反乱軍との戦いに投入され、激しい戦闘が繰り広げられた。反乱軍は一時的に勢力を増し、多くの州郡を占拠したが、最終的には鎮圧された。
しかし、反乱が一度鎮圧された後も、小規模な反乱や盗賊行為が各地で続いた。
このような状況は後漢王朝の弱体化を加速させ、後に曹操や劉備、孫権といった群雄が台頭し、三国時代の幕開けへと繋がっていくことになる。
黄巾の乱による死者数は正確には不明だが、数十万人から数百万人に及んだとされている。この時期の人口減少は、中国史に大きな影響を与えることになる。
ちなみに後漢の霊帝の時代、中平5年(188年)の推定人口は59,780,000人であった。しかし、三国時代の初期である221年には14,083,000人にまで減少しており、なんとたった33年間で人口が1/4に激減したことになる。
これは、貧困と飢餓によって農民が乱が起こし、農民が戦い農地が戦場となることで収穫が大激減するという、最悪な相乗効果によるものと考えて良さそうだ。
最後に
黄巾の乱が勃発した背景には、社会的、経済的、政治的な諸要因が複雑に絡み合っていた。
張角の宗教運動は、困窮に苦しむ農民たちの支持を集めて拡大したが、結果的には人口減少を大きく加速させる要因となった。
黄巾の乱は、単なる農民反乱ではなく、後漢王朝の終焉と三国時代の長い混乱を予告するものであったといえよう。
参考 :
『徳田本電子版 全訳資治通鑑』
『中国人口史』
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