三國志

【三国志】曹操を支えた天才軍師・荀彧と郭嘉

曹操の軍師といえば

画像 : イメージ by草の実堂

蜀の劉備の軍師といえば言わずと知れた諸葛孔明龐統、呉の孫権の軍師といえばイケメンと名高い周瑜陸遜などが有名である。

では魏の曹操の軍師といえば誰だろうか?

曹操は「人材コレクター」と呼ばれるほど多くの人材を登用したことで知られており、軍師においても他国が羨むほど優秀な人材が数多く揃っている。

今回は、特に優秀とされた魏の二人の軍師、荀彧(じゅんいく)と郭嘉(かくか)について掘り下げていきたい。

荀彧とは

画像 : 荀彧 public domain

荀彧、字は文若(ぶんじゃく)。豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の出身である。若い頃からその才名をうたわれ、「王佐の才」と称揚された。

荀彧が最初に曹操の元を訪れた時、自身を劉邦になぞらえた曹操は、「わが子房(しぼう)が来た」と大いに喜んだという。この「子房」とは前漢の初代皇帝である劉邦の軍師、張良の字である。

荀彧は最初は袁紹に仕え、上賓の礼をもって迎えられたが、ほどなく袁紹を見限り、曹操のもとへ乗り換えた。
荀彧は主に曹操の留守を預かり、政務を代行することが多かった。彼は遠征にはほとんど出ず、留守を守りながら長期戦略を立てる行政官としての役割を果たしていた。

196年、曹操が献帝(漢の皇帝)を自領に迎え入れたのも荀彧の助言を受けてのことである。荀彧は戦乱を避け、洛陽に逃れていた献帝をただちに保護するよう献策し、これに従った曹操の軍は「官軍」としての地位を確立した。その後の官渡の戦い(200年)でも、曹操は出征先から軍の進退を荀彧に相談したほどであった。

曹操は荀彧の功績を賞し、三公(最高位の官職)に推薦しようとしたが、荀彧は何度も辞退した。次第に彼が自分の意に従わなくなっていくことを曹操も察していたかもしれない。
そして、曹操が北方を平定して南方へ攻め入った赤壁の戦い(208年)の前後より、荀彧の名は表舞台から消えていった。

荀彧の最後

晩年、荀彧は曹操と対立し、謎めいた死を遂げることとなる。ある説では、荀彧は曹操に対し「皇帝になるにはまだ徳が足りない」と諫言し、これが曹操の不興を買ったされる。また、荀彧が寿春にて「憂いをもって没した」という記述もある。

他の説では、曹操から贈られた食物の箱が空っぽだったため、荀彧は自らがすでに不要とされたことを悟り、自ら命を絶ったとも伝えられる。このエピソードは『魏氏春秋』という史書にあり、「三国志演義」にも引用されているが、定説となっている一方で謎を深めている。

いずれにせよ、荀彧による多くの献策が曹操の躍進に寄与したことは確かである。
曹操は遠征中であっても、軍事・内政の全てを荀彧に相談するほど信頼していた。さらに荀彧は、その人脈と鑑識眼から多くの秀才を推挙し、高く評価されていた。

しかし後年、「魏」の功臣が曹操の廟庭に祀られた際、荀彧は祀られなかった。

郭嘉とは

画像 : 郭嘉 public domain

郭嘉、字は奉孝(ほうこう)。豫州潁川郡陽翟県(現在の河南省許昌市禹州市)の出身である。

荀彧と同じく郭嘉も最初に袁紹と面会したが、袁紹は天下を取れる人物ではないと見て仕官せずに去った。一方、曹操は謀臣として重用していた戯志才(ぎしさい)を亡くし、後任を探すために荀彧に相談していた。曹操から相談を受けた荀彧が推挙したのが、同じ潁川出身の郭嘉であった。

郭嘉は曹操と対面すると、天下について議論し意気投合した。曹操は「大業を成就させてくれるのは間違いなくこの男だ」と確信し、郭嘉もまた「まことに私の主君だ」と、理想の主君に出会えたことを喜んだという。

郭嘉は物事や人を見通す力に優れていた。徐州で反旗を翻した劉備を攻める準備を進める一方で、曹操は許昌を空けた隙を袁紹に狙われないか心配していたが、郭嘉は袁紹が攻めてこないことを見通していた。
また、袁紹との官渡の戦いでは、脅威となっていた孫策に南から攻められる危険があったが、郭嘉の読み通り孫策は暗殺された。

さらに郭嘉は、劉備が将来的な脅威になることを見抜いており、曹操は劉備を早いうちに取り除かなかったことを後悔したという。

官渡の戦いから程なくして袁紹は病死したが、依然として袁家の勢力は強大で簡単には勝てる相手ではなかった。しかし、袁紹の息子たちは不仲であり、袁譚と袁尚の兄弟同士で争いを始めてしまった。曹操はその隙を突いて追撃しようとするが、郭嘉は「攻撃を続けて両者を団結させるよりも、放置して再度同士討ちをさせるべき」と進言し、曹操はその言葉に従った。

郭嘉の読みは正しく、袁譚と袁尚は曹操軍がいなくなると同時に争いを始め、最大の脅威だった袁家は自らの手で弱体化を招き、207年に曹操によって滅ぼされた。袁紹の死から5年という長い時間がかかったが、郭嘉の果たした貢献度は非常に高かったといえよう。

郭嘉の最後

このように、郭嘉は人を見抜く力と物事を見通すことに長けていた。
しかし38歳の時、柳城から帰還後、病に倒れてそのまま死去した。曹操は、後事を郭嘉に託そうと考えていたため、この早世を非常に悲しんだ。

後の赤壁の戦いで敗れた時も、「郭嘉が居れば私をこんな目に遭わせることはなかっただろうに」と、嘆いたほどであった。

互いに才と度量を尊重しあった関係性

荀彧と郭嘉はともに一度は袁紹に会っている。もし袁紹が二人を得られるような器であったなら、官渡で敗れることはなかっただろう。

彼らの助言と行動は、曹操の軍事的成功と政治的な安定に大きく寄与し、魏の統治を支える礎となった。もし彼らがいなかったなら、曹操の覇業は達成されなかったであろう。

そして、荀彧と郭嘉の二人もまた、理想の主君を見つけられたことに満足していたに違いない。

参考:『正史三国志』『三国志演義』他

 

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