三國志

あの「乱世の姦雄」曹操も傷ついた?親友・張邈の裏切りエピソード【三国志】

信頼していた人に裏切られるというのは、かなりのショックですよね。

日ごろ信頼していればいるほど、より深く傷ついてしまうものです。

そんな気持ちは千年以上の歳月と海を隔てた『三国志』の英雄たちも同じだったようで、今回は張邈(ちょう ばく。孟卓)のエピソードを紹介したいと思います。

董卓討伐連合軍に参加するが……

張邈は兗州東平郡寿張県(現:山東省)の出身、生年は不詳ですが、曹操(そう そう。孟徳)や袁紹(えん しょう。本初)と親友であったことから、概ね同世代と見ていいでしょう。

若いころから義侠心に篤く、困っている者を助けるために財産を惜しまなかったと言われています。

古来「扶飢済困 仗義疎財(ふきさいこん じょうぎそざい。飢えたるをたすけ、困れるをすくい、義によりて財を疎む)」と言う通り、張邈はそれを体現していました。

そういう人物は大抵やんちゃ(無頼)なキャラクターがお約束ですが、張邈は品行方正、明晰な頭脳と人徳の高さで名声を得ており、官界でも高く評価されていたと言います。

さて、そんな張邈は初平元年(190年)、天下の政権を壟断する董卓(とう たく。仲穎)を討伐するべく袁紹の檄に応じて挙兵。弟の張超(ちょう ちょう。字は孟高)や家臣の衛茲(えい じ。字は子許)らと共に諸侯連合軍に参加しました……が。

董卓を討つべく結集した諸侯(イメージ)

「何だこれは!」

董卓を討伐するべく結集した諸侯たちは、首都・洛陽(現:河南省)を睨んで陣を張ったかと思ったら、連日連夜どんちゃん騒ぎの大宴会。誰一人まともに戦おうとしません。

「我らは逆賊・董卓を討つために集うたのではなかったのか!」

怒りに燃えて諸侯を促す張邈でしたが、諸侯同士では変な人間関係のしがらみがあったようです。

「なぜワシがアイツの指揮で戦わねばならんのだ……」

「できれば兵員も食糧も減らしたくない……国許へ帰ったらアイツに引けをとらぬように……」

「ここでワシが出しゃばったら、みんなから白い目で見られてしまうからな……」

「何より途中で宴席を立ったら、きっとワシの悪口大会が始まるに違いない……」

「あぁ、天下を憂うパフォーマンスが終わったら、早いところ帰りたい……」

そんな連中を何とか説得できないものか……ほとほとうんざりしていた張邈に代わって、諸侯を怒鳴りつけたのは曹操でした。

「貴公らは、董卓を酒の肴にするために、わざわざ洛陽までやって来たのか!」

「……いや、まずは英気を養って、それから戦おうと……」

(……何だよあの若造は……余計なことを……ブツブツ……)

あえて空気を読まない曹操の叱咤に応じたのは、諸侯のうち鮑信(ほう しん。允誠)と張邈のみ。

「えぇい、構うものか……勇気ある者は、我に続け!」

「「「おおぅ……っ!」」」

張邈は衛茲に兵を与えて曹操に加勢させますが、多勢に無勢で董卓の先鋒・徐栄(じょ えい)に撃破され、衛茲は討死。

敗走する曹操らを嘲笑う諸侯(イメージ)

「せめて、もっと軍勢が多ければ……!」

片腕であった衛茲を喪った張邈ですがその闘志は衰えず、なおも諸侯に奮起を促したものの、のらりくらりとかわされる内に兵糧が尽きてしまいます。

「ヤツらはいったい、何をしに来たのだ!」

「……孟卓よ、ここで悔いても始まらぬ。今は力を蓄え、再起を期そうぞ」

「あぁ。その時まで、達者でな」

かくして董卓討伐連合軍は解散。諸侯らは国許へと帰り、張邈も本拠地の陳留(現:河南省)へと帰って行ったのでした。

裏切り者の末路

その後、董卓は腹心であった呂布(りょ ふ。奉先)の裏切りによって暗殺され、その呂布は董卓の残党に追われて逃げ出しました。

呂布のクーデターにより、暗殺された董卓(イメージ)

呂布は当初、袁紹の元へ身を寄せたものの諍いを起こして離反、張邈の元へ来ても保護しないよう袁紹から通知が来ましたが、張邈はこれを無視します。

「……何じゃ、かつて董卓を討とうとした時は、威張り散らすばかりで何もしなかったヤツが、董卓を討った呂布の扱いを、少なくとも董卓を討つべく行動を起こしたワシにとやかく言う筋合いなどないわい」

こうして張邈は呂布を歓待したため袁紹と不和になり、袁紹と親交のあった曹操も自分の敵に回るのでは、と疑心暗鬼に陥ったと言います。

しかし曹操は張邈を信頼していたようで、興平元年(194年)に徐州(現:江蘇省)の陶謙(とう けん。恭祖)を攻めるため国許を空ける際、家族に対して

「万が一、ワシが討死するようなことがあったら、孟卓を頼れ」

と伝えたそうですから、よほど篤い信頼関係があったのでしょう。

しかし、当の張邈は大いに揺らいでいました。

「孟卓殿、今こそあの曹操めを討つ絶好の機会。これを逸すれば、必ずや天下はあの者の恣(ほしいまま)となりましょうぞ!」

「そうです兄上。ここは友情よりも天下の大義を奉戴し、董卓を誅した義士・呂布殿を盟主と扶翼すべきではありませぬか!」

「……うぅむ……」

説得に来ていた陳宮(ちん きゅう。公台)に、元から曹操と仲が悪かった張超が賛同。悩んだ末に張邈はガラ空きとなった曹操の本拠地・兗州(現:山東省・河南省)に侵攻します。

「何かあったら頼れ」と言うほど信頼していた張邈の裏切りですから備えも(まったくしていなかった訳ではないでしょうが)薄く、瞬く間に兗州は制圧されていきました。

進撃する呂布たち(イメージ)

「まさか、孟卓が……」

張邈の裏切りを知った曹操はさぞや愕然としたでしょうが、とかく酷薄冷徹で人を信頼などしそうにない「乱世の姦雄」曹操にも、意外な一面があったようです。

それはそうと徐州遠征から戻った曹操は次第に勢いを盛り返し、興平2年(195年)には兗州から追い返されてしまいました。

敗軍の混乱に紛れて呂布や陳宮、張超らとはぐれてしまった張邈は、陳留に残っていた一族の救出を図りますが、部下の裏切りによって殺されてしまいます。

張超は一族と合流、陳留から脱出したものの曹操の軍勢に追い詰められ、張超は焼身自殺。残る三族(父母・兄弟・子供)も鏖(皆殺し)にされたということです。

「裏切り者は、絶対に許さぬ……殺せ、殺せ、みな殺せ!」

もしかしたら、張邈に裏切られたトラウマが、曹操の冷徹なキャラクターを確立させてしまったのかも知れませんね。

それだけ張邈が信頼されていたことの裏返しとも言えますが、せめてあの世では二人に和解して欲しいものです。

※参考文献:
井波律子『三国志演義』ちくま文庫、2003年8月
陳寿『正史 三国志』ちくま学芸文庫、1994年3月
渡邉義浩『三国志事典』大修館書店、2017年5月
仙石知子ら『三国志演義事典』大修館書店、2019年6月

角田晶生(つのだ あきお)

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