福田村事件とは、1923年9月6日に千葉県野田市で起きた惨殺事件だ。
この事件が起こる5日前の9月1日には、関東大震災が発生していた。
震災による混乱の中で起きたこの事件では、香川県から行商に来ていた薬売りと妊婦、幼児を含むその家族が、近隣の村の自警団の男たちから苛烈な暴行を受け、殺害や瀕死の重傷を負わされた上に、利根川に捨てられ流されてしまったのだ。
福田村事件が起きた背景には、関東大震災による混乱だけでなく「方言への無理解」と「朝鮮人に対する根強い差別意識」があった。
今回は、言葉の違いと差別意識が生んだ惨劇、福田村事件に触れていこう。
福田村事件が起きた経緯
福田村事件が起きたその日、被害者となった薬売りとその家族らは、現在の千葉県野田市にあたる東葛飾郡福田村三ツ堀の利根川沿いで、福田村の自警団と近隣の田中村(現在の柏市)の自警団に取り囲まれていた。
薬売りたちは、その年の3月に香川県を出発した行商団で、2歳から6歳の幼児や妊婦を含む総勢15名である。香川から関西を抜けながら各地を巡り、群馬を経て8月には千葉県に入っていた一団だった。
9月1日に関東大震災が起きてそのすぐ後、9月4日には千葉県にも緊急勅令による戒厳令が下され、火事場泥棒や朝鮮人などを取り締まるために自警団の組織及び強化が行われ、村中で警戒感が高まっていたという。
香川の薬売りたちは、そんな厳戒態勢が布かれた福田村を通過しようとした時に、利根川を渡るための船の船頭に呼び止められて尋問を受けた。しかし、千葉県で生まれ育った船頭は、薬売りたちが話す讃岐弁を聞き慣れておらず、ほとんど聞き取ることができなかったのだ。
船頭と薬売りたちのやり取りは、次第に言い争いに発展していった。
言葉が通じないことで、船頭は薬売りたちが朝鮮人なのではないかと疑い出した。そして、村の自警団が集まってきて薬売りたちを取り囲むに至った。
大正時代に起きていた朝鮮人差別
そもそもなぜ、関東大震災後に朝鮮人に対する警戒態勢が公的に取られたのだろうか。
震災の混乱の中、無実の朝鮮人までもが迫害された背景について解説していこう。
1910年8月29日に日本によって韓国併合が行われてから、1945年9月2日に日本が連合国に降伏するまでの35年以上、朝鮮は日本の統治下にあった。
しかし、朝鮮半島では日本の支配を是としない人々によって朝鮮独立運動がたびたび起きており、福田村事件が起こる4年前の1919年3月1日には「三・一運動」という大きな独立運動が起きて、鎮圧のために軍が出動するほどの騒ぎとなっていた。
当時の朝鮮独立運動に関わった政治犯に関する情報は、日本本土では「放火や略奪を繰り返す不逞の賊徒」として歪曲報道されており、朝鮮人に対する差別心や弾圧が日本全土で強まっている最中であった。
さらに、関東大震災が起きた当日と翌日には、関東各地の警察が「朝鮮人に対する警戒感を高めるように」と、人々に呼び掛けていた。
その結果として村の自警団は興奮状態になり、素性の知れない行商人や朝鮮人と思われる集団に対して、過剰な警戒心を抱くようになっていたという。
幼児と妊婦を含む合わせて9名が殺害され、川に遺棄される
薬売り一行を取り囲んだ自警団総勢200名ほどは、薬売りに「15円50銭」などと言うよう強要し、言葉に訛りがあることを指摘して「朝鮮人ではないか」と言葉を浴びせた。
自警団とともにやってきた福田村の村長は「日本人ではないか?」と意見を呈したが、興奮する群衆は聞く耳を持たなかった。
事態が収拾しないことに危機感を覚えた駐在所の巡査は、本署に問い合わせするためにその場を一時離れた。
そしてその直後、惨劇は起こった。
自警団の何人かが平静を失い、薬売りとその子供や妻らを荒縄や針金で縛り上げ、鳶口や棍棒で殴り掛かって撲殺し、遺体を利根川に投げ捨てた。薬売りの一団15名のうち、妊婦と幼児3名を含む9名が、なすすべもなく殺害されたのだ。
群衆の中からは、銃声やバンザイの声を上がったという。
現場を目撃した福田村の住人は「大混乱で誰が犯行に及んだかはわからず、メチャメチャな状態だった」と後に証言している。
事態を聞きつけた本署(松戸警察署野田分署)の警察部長が現場にかけつけた時には、薬売り一行6名が拘束され、今にも殺されそうな状況だった。
警察部長の説得により6名はかろうじて生き残り、その後、自警団員8名が騒擾殺人罪で検挙された。
福田村事件のその後と、事件が明るみになった経緯
検挙された福田村と田中村の自警団員らは裁判にかけられ、田中村の1名だけが第二審で下された「懲役2年、執行猶予3年」の判決を受け入れたが、残り7名は大審院まで持ち込み、懲役3年から10年の実刑判決が下された。
しかしその後、受刑者全員が判決から2年5ヶ月後に、昭和天皇即位の恩赦で釈放されている。
後に行われた調査によれば、出所した人物のうち1人は選挙を経て村長になり、その後は市議会議員を務めて村の名士になったという。
福田村事件は、太平洋戦争後もずっと明るみにされないままであった。
しかし、1979年に遺族らから「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼実行委員会」に連絡があり、事件についての調査が開始され、1980年代後半になってから新聞などで取り上げられるようになった。
事件から70年以上が経った2000年3月には、薬売りたちの地元の香川県で「千葉福田村事件真相調査会」が設立、同年7月に千葉県で「福田村事件を心に刻む会」が設立され、9月に「福田村事件犠牲者追悼式」が現地で行われ、その後もたびたび追悼式典が開催されている。
福田村事件が長年闇に葬られ続けた理由としては、事件が起きた時期が震災後の混乱期であったこと、薬売りたちが被差別部落出身で、生存者や遺族が差別による二次被害を恐れ、多くを語らなかったことを指摘する意見もある。
最後に
事件から100年が経った2023年、ドキュメンタリーディレクターでノンフィクション作家でもある森達也氏が監督を務め、『福田村事件』というタイトルで、この事件を映画化した。
人々の中にある「自分とは異なるコミュニティに属する人間」に対する根源的な差別意識は、グローバル化や多様化が進んだ現代でも無くなってはいない。直接的な暴行は発生しなくても、インターネットを介して第2、第3の福田村事件が起きないとも限らない。
私たちがこの事件を知ることによって得られるのは、人間は「自分に正義がある」と思った時にこそ、どこまでも非情かつ残酷になれるという事実だ。
自分の正義が誰かを傷つけ、間接的に命を奪うほどのダメージを与えてしまっているのではないか。誰かに自分の意見を投げかける時は、常にそういった意識を持ち続ける必要があるだろう。
福田村事件で犠牲になった人々の恐怖や困惑は想像もできない。せめて今はその魂が安らかであるよう祈るばかりである。
参考文献
辻野弥生 (著)『福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇』
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