古代中国の皇帝
古代中国の皇帝と言えば、豪華で贅沢な生活を思い浮かべる方が多いだろう。
たくさんの家臣と数多くの側室に囲まれ、何不自由ない生活を送っているイメージだ。
栄養面や健康管理にも細心の注意が払われ、常に名医たちが皇帝の健康を見守っていたはずである。しかし、歴史的に見ると意外にも多くの皇帝たちは短命に終わっている。
秦の始皇帝(紀元前221年)から清朝が滅亡するまでの約2,000年にわたり、中国には557人ほどの皇帝が即位したとされるが、その平均寿命はおよそ40歳前後に過ぎない。
現代に比べ、医療が未発達だった古代では人々が短命であるのは当然だが、それにしても早死な印象を受ける。
一例を挙げると、後漢の歴代皇帝の寿命にいたっては平均すると30歳ほどである。
○後漢皇帝寿命一覧
初代:光武帝 享年64。
2代目:明帝 享年48。
3代目:章帝 享年32。
4代目:和帝 享年28。
5代目:殤帝 享年2。
6代目:安帝 享年32。
7代目:少帝懿 享年20代
8代目:順帝 享年30。
9代目:沖帝 享年3。
10代目:質帝 享年9。
11代目:桓帝 享年37。
12代目:霊帝 享年34。※黄巾の乱の時の皇帝
13代目:少帝弁 享年18。 ※董卓に殺される
14代目:献帝 享年54。 ※曹丕に譲位を迫られる
長く生きたと言えそうなのは、64歳まで生きた初代の光武帝と、54歳まで生きた14代目の献帝、次いで48歳の明帝のみとなる。
民族や王朝が違う全体を見ても、60歳以上まで生きた皇帝はわずか30人程度しかいないのだ。
この短命の背景には、様々な要因が影響していると考えられている。
皇帝たちが短命だった理由
皇帝たちが短命に終わった理由の一つには、後継者争いや側近たちによる権力闘争、さらには反乱などが挙げられる。
皇位継承を巡る陰謀や争いは、命を危険にさらす状況を常に作り出していた。さらに、側室たちも自らの息子を次期皇帝にするため、時には過酷な手段を用いた。これらの宮廷内の対立や暗殺未遂などが、皇帝たちの命を縮める要因となっていた。
また、運動不足も皇帝たちの寿命に悪影響を与えたと考えられる。
過保護な生活が常態化しており、皇帝自身が体を動かす機会は多くなかったであろう。どこに行くにも家臣たちが付き従い、汗を流すような労働をすることもなかったため、体力が衰え、健康状態も悪化しやすかったはずである。
さらに、皇帝たちは政治や国事に日々追われ、多大なストレスを抱えていた。
国家を統治する重圧や国内外の問題に頭を悩ませ、心労が体に影響を与えたと考えられる。これに加えて、暴飲暴食や不規則な生活が、皇帝の体調をさらに悪化させたことも推測されている。
また、皇帝たちは「不老不死」を夢見て、さまざまな薬物を服用する者が多かった。
これは不老不死を追究した「道教」による影響が大きく、有名なところでは秦の始皇帝、漢の武帝、唐の武則天や明の嘉靖帝などが知られている。
その中には水銀を含む有害な薬もあり、長期間服用することで体内に蓄積し、健康を損ねた可能性が高い。
不老不死を追い求めた結果、かえって命を縮めてしまったのである。
長寿を保った例外「乾隆帝」
しかし、短命の皇帝が多い中でも、長寿を全うした例外も存在する。
例えば、清の乾隆帝(けんりゅうてい)は、89歳まで生きた歴代皇帝の中でも特筆すべき存在である。
彼の長寿の理由としては、いくつかの要因が考えられる。
まず、乾隆帝は健康的な食生活を送っていたことが挙げられる。特に野菜を好み、ナスを頻繁に食べていたという記録が残っている。
ナスには血圧や血糖値を下げる効果があるとされ、健康に良い影響を与えていたと考えられる。
また、乾隆帝は狩猟を好んで行い、運動を日常的に取り入れていたことも長寿に寄与したとされる。
さらに、乾隆帝の母親も86歳という長寿を享受しており、遺伝的な要素もあっただろう。
また、乾隆帝が治めた時代は清朝の最盛期であり、国内外の安定が保たれていたため、他の皇帝と比べて政治的なストレスが少なかったことも、彼の長寿を支えたと考えられる。
おわりに
古代中国の皇帝たちは、華やかな権力の裏で過酷な現実に直面していた。
後継者争いや反乱といった外的要因に加え、運動不足や不規則な生活、不老不死を求めた薬物の使用が、寿命を縮める要因となったのである。
栄光と権力を持つ皇帝という地位は、時にその命すら危険にさらす苛烈なものであったと言えるだろう。
参考 : 『後漢書』『史記』『TVBS健康網, “乾隆皇帝的養生秘密:愛吃茄子”』他
文 / 草の実堂編集部
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