三国時代に活躍した名脇役
中国は計56の民族からなる多民族国家だが、その歴史は異民族同士の戦いの歴史でもあった。
今回は、歴代の王朝を脅かした民族の中から、三国時代に活躍した異民族を紹介する。(※漢人視点)
烏桓に慕われた幻の皇帝候補
三国志の異民族に関する記述に於いて特に目にする機会が多いのが、今回の主役である烏桓(うがん「烏丸」とも)と、姉妹民族である鮮卑(せんぴ)だ。
両者は、元は匈奴(きょうど)の冒頓単于(ぼくとつぜんう)が前漢時代に滅ぼした東胡(とうこ)という民族の生き残りで、それぞれ烏桓山と鮮卑山に逃げ込んだ事に由来(諸説あり)する、かなり関係の近い民族だった。
両者は三国時代以前も漢との国境を脅かしていたが、時代が進んで三国時代に入ると、それぞれの勢力圏が魏と隣接していた事もあり、曹操や魏と何度も争いを繰り広げている。
魏(曹操)との戦いは後で紹介するとして、実は過去の記事で少しだけ異民族に触れており、幻の皇帝候補こと劉虞(りゅうぐ)が、異民族を交渉で従属させた実績を紹介している。
皇帝になることを拒否した男〜 劉虞 「人望はあったが戦が下手すぎた幻の皇帝候補」※正史三国志
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/68646/
幽州周辺を荒らし回り、領地的な問題を通り越して国家的な問題となっていた異民族を、戦う事なく従属させた劉虞の人柄と政治的手腕は、もっと評価されるべきだろう。
劉虞が閉ざした可能性
もう一つ、異民族と劉虞にちなんだエピソードを紹介する。
187年、中山太守の張純が反乱を起こすと、幽州牧に任命された劉虞は乱の鎮圧に向かった。
この乱には、烏桓の丘力居(きゅうりききょ)も加担していたが、ここで劉虞の過去の実績が活きる。
異民族と刃を交える事なく懐柔した劉虞の名は、異民族の界隈で響き渡っており、丘力居はあっさり劉虞に降伏してしまう。
張純は鮮卑の元に逃げ込んだが、結局味方の裏切りで討たれてしまい、異民族をバックに着けた烏桓(劉虞)対鮮卑(張純)の間接的な代理戦争とはならなかった。
また、この乱に於けるもう一つの注目すべき点として、後に劉虞と争う事になる公孫瓚は、劉虞の手腕と、鎮圧の手柄を奪われる事を恐れ、交渉に向かっていた丘力居の使者を殺害するなど交渉の妨害を行っていたという。(元は公孫瓚が乱の鎮圧に当たっていたものの、平定出来なかったために劉虞が呼ばれた)
最終的に劉虞は、公孫瓚との戦いに負けて処刑される事になるが、この一件が両者の確執を深める事となったのだ。
劉虞は10万の軍で公孫瓚に挑んだが、その中には異民族の軍も加担しており、遊牧民族ならではの馬術と戦闘力を持った彼らを上手く使えば、大きな戦力になるはずだった。
だが、劉虞は「狙うは公孫瓚の首のみ、他の者を傷付けてはならない」という無茶な命令を出したためまともに機能せず、最終的には敗れて処刑されてしまった。
そして、異民族に慕われていた劉虞が殺された事によって烏桓が再び暴れ回るようになり、劉虞が安定させた北方の情勢が乱れる事になる。
袁紹は劉虞の皇帝擁立を目論んだが、もし劉虞が皇帝となったら、歴代王朝を悩ませた異民族との関係を変える可能性があったかもしれない。
白狼山の戦い
曹操と袁紹の一大決戦「官渡の戦い」で曹操が勝利すると、鮮卑の代表だった歩度根(ほどこん)は、曹操への従属を申し出た。
袁紹の死から5年後の207年、曹操は鮮卑を、袁煕と袁尚は烏桓の蹋頓(とうとん)を味方に着けて最終決戦に入る。
袁煕と袁尚が逃げたのは北方の僻地であり、遠征すれば曹操は長期間本拠地を留守にする事になり、他勢力からの進攻を懸念する声もあったが、軍師・郭嘉の「兵は神速を貴ぶ」という言葉を聞いて曹操は遠征を決意する。
烏桓軍を率いる蹋頓は「さすがの曹操も、僻地である柳城には簡単には来られないだろう」と油断していたため、特に準備をせずにいた。
しかし、曹操が軽騎兵を優先させた昼夜問わない強行軍で、自分たちのすぐ側まで迫っている事を知って驚く。
蹋頓は慌てて袁兄弟とともに迎撃に出ると、曹操軍と白狼山で突如鉢合わせとなった。
最初は烏桓有利で進んだ戦闘だったが、曹操軍の張遼の指揮で烏桓軍は大いに崩され、蹋頓は捕まって斬首された。
袁煕と袁尚は公孫康の元に逃げ込んだが、曹操は「独立勢力である公孫康がわざわざ火種となる袁兄弟を保護するはずもない、すぐに二人の首を送って来る」と、追撃はせずに撤退した。
結局、その言葉通り、袁煕と袁尚は公孫康に斬られ、烏桓の残党も降伏する事になった。
この戦いに鮮卑の面々がどの程度関わっていたは不明だが、白狼山の戦いの敗戦により烏桓は大きく弱体化する事になり、北方の異民族の覇権は完全に鮮卑が握る事になった。
一方の烏桓は、残党が曹操軍に吸収されたことで完全な滅亡は免れたが、勢力としては事実上の崩壊となった。
その後の烏桓
今回は、三国志に登場する異民族から烏桓をメインに紹介したが、前述の通り、魏に吸収された後も烏桓は滅亡はしておらず、烏桓を管轄する「護烏桓校尉(ごうがんこうい)」という役職は魏の末期まで存在した。
烏桓も何度か魏に対して反乱を起こしているが、いずれも鎮圧され、その後は歴史からその名を消す事になる。
鮮卑とともに、北方で名を馳せた代表的な異民族の最期としては淋しいものだったが、民族自体が消滅したわけではなく、いわゆる漢民族の世界に溶け込むうちに混血が進むなどして、民族の境界がなくなったという説が有力だ。
三国時代を通して漢民族、及び魏へと適応していったのだろう。
現在、烏桓の末裔がどれだけ存在するかは不明だが、歴史から姿を消した今日でも彼らの血はどこかで生き続けているはずだ。
参考 : 『正史三国志 烏丸傳 鮮卑傳』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。